真弓の日常①

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真弓の日常①

「え、彼氏? 彼氏なんてもう三年もいないよ」 「三年はヤバくない?」  冷やされすぎた夜のコンビニエンスストアでカップラーメンを選んでいると、そんな会話が聞こえてきた。会社帰りの真弓が声のするほうを振り返ると、大学生と思しき男女がスナック菓子を選んでいるところだった。肩の上で切りそろえられた女の子の髪の毛が揺れる。外国人のブロンドヘアのような、自然な金色に染められたその髪の毛は、茨城の片田舎ではなかなか見ない派手な色だった。  ついこのあいだ二十九歳になったばかりの真弓は、左耳に意識を集中させながら、ごつ盛りソース焼きそばを手に取った。カロリー表示を気にする女の子の姿が目に入り、真弓は、自分がここ数年カロリーを全く気にしていなかったことに気が付いた。ふと思い立って大きな四角いカップを回してみると、784キロカロリーと小さく表示してある。チッ、という音が鼓膜に響き、自分が舌打ちをしたことに気が付く。真弓はオレンジ色のカゴにそれを放り込んだ。 「彼氏、欲しいとか思わないの?」 「思うけどさ」  女の子は、人気のあるポテトチップスのパッケージに伸ばしかけた手を引っ込めて、くぐもった笑い声を上げた。真弓はもう一つ、ごつ盛りシリーズのカップラーメンをカゴへ入れた。少し乱暴な音を立ててみたところで、ふたりの世界は叩いても壊れないシャボン玉の膜みたいなものに覆われているのだろう。きっと遮音対策がなされているから、ふたりの世界にはお互いの声や息遣いだけが響いている。 「あのさ」 「うん」 「こんなとこでアレだけど、俺たち付き合わない?」  バンと叩くとすぐに冷える瞬間冷却剤よりも速く、空気が一瞬にして固まった。男の子の声はそんなに大きくなくて、だけど大きめのBGMよりもはっきり聞こえた。 「ほんとにこんなとこでだね」  女の子は、さっき手を伸ばしかけた大袋とは違う、一回り小さなサイズのポテトチップスを手に取った。美味しいのにカロリーオフだと話題で、最近若い女性のあいだで徐々に人気が高まっていると聞いたことがある。 「私、三年も彼氏いなかったから、恋愛の仕方とか忘れてるよ」 「そんなん別に関係ないよ」  男の子の拳は固く握られていた。真弓はどうしても我慢できずに、左手の薬指の爪を噛んだ。肩をすぼめ、垂れ下がる髪の毛で口元を隠す。 「うん」  女の子の返事が鼓膜に響いて、真弓は爪を噛み締めた。ざわつく心を落ち着かせているあいだに、ふたりはコンビニエンスストアから出て行った。  入ってくるときは友達として、出て行くときは恋人としてだね。  そんな会話をしながら、むっとする空気に包まれた歩道を歩いてゆくのかもしれない。ときどき涼しい風が吹くだろう。近くのコンビニへ行くにも十五分以上はかかるこの田舎の道を、真弓にとっては虚しいこの畦道を、ふたりはきっと、汗ばむ手のひらを絡め合って歩いてゆく。 真弓は二十九歳で、生まれてこのかた彼氏がいない。よく冷やされた夜のコンビニエンスストアで、俯いて爪を噛んでいる。一人で歩いてきた二十分ほどの道のりを、また一人で戻らなくてはならない。蝉は鳴いていなくても、圧を感じるような熱気の中で、たまに吹く涼しい風を頼りに、汗をかきながら帰らなくてはならない。汗をかきながら帰ったところで、待っていてくれる人は誰もいないのだ。 「ありがとうございましたぁ」  研修中のギャルの、猫のあくびみたいに間延びした声が背中に張り付くのと同時に、自動ドアが開いた。吸い込まれるように重たい闇の奥のほう、遠くにまめつぶほどの電灯が見える。ちいさな月は高すぎる。闇へ足を踏み入れると、熱気が真弓の体を包み込んだ。絡みつく熱気は振り払うことができない。 「あっついなぁ」  呟いた声は自分のものとは思えないほど頼りなくて、すぐに濃紺の空へ溶けていった。年々夏が暑くなっている。真弓にはそんな感想を気軽にいい合える友人も、同僚もいないのに、そんなことを考える。
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