プラセボの花

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 二人の予定があった休みに河津桜を見にきた。流石に桜を見るだけではお礼にならないだろうと思って一応ランチをご馳走してから桜の下へ来てみた。  彼女の案内で着いた先は河津桜の並木道だった。ソメイヨシノより鮮やかなピンク色が目を引く。目の覚めるような色。俺が想像していた桜とは少し違った。でも花をしっかり見てみれば、それは確かに桜だった。 「こんなところあったんだな」 「意外と知らないんですよね、みんな」 「確かに、これ別の花だと思っているのかもな」 「そうかもしれませんね。そうだ。意外と言えば、戸川さんは春が近づいて来ているのになんで風邪なんかって言ってましたけど、意外に春と病って関係があるんですよ」 「そうなの?」 「昔々は、春の花が散る頃に花と一緒に疫病の神も飛散して疫病を起こすと考えられていたみたいですよ。そのために花を収める鎮花祭とか聞いたことありません?花鎮め祭とも言うかな」 「へー、散る桜に乗って病気が来るのか。 じゃあ、花粉症もそれの一種なのかね。花鎮め祭で花粉症も鎮めてもらいたいものだね」 「ぷっ」  葉月が吹き出す。 「よかった。いつも通り、元気になったみたいですね」  くすくすと笑っている。その姿を微笑ましいと思うけど、俺は今日会った時から思っていたことをぶつけてみる。 「なんで今日だったの?」  疑問を投げかけるとくすくす笑っていた葉月の動きが止まる。そしてこちらにすっと視線を向ける。その視線にもう一度投げかける。 「桜なら、もう少し待てば河津桜じゃなくて普通のがそこら中で見れただろ?……なんで今日だったの?」  連絡をしたときにはそんなこと思わなかった。でも、今日会った時の彼女はいつもとは少し違う、虚ろいがちな表情をしていた。ランチを食べていたときもずっと。  だから、今日ではいけない何かがあるのかと思った。  桜並木の中、沈黙がだけが少しの間を埋める。  そして少し微笑みながら彼女の声が響く。 「今日が最後……だからです」  小さな声だけど、しっかりとこちらに聞こえる大きさ。 「最後……?」  俺をじっと見据える。 「彼にプロポーズされたから、結婚するんです」  その言葉で、胸を一筋の冷たさが貫く。微かに感じていた胸の中に淡く咲いた桜の花。冷たさがその花に刺さり花から、はらはらと花びらが散り落ちていく。  プラセボの魔法が解けた。  俺は、今のこの2人の関係がプラセボ……偽物だと理解していたはずなのに、心のどこかでこれはもしかしたら本物なのかもしれないと期待していたんだ。 「そう、おめでとう」  胸のつかえとは裏腹に言葉はすんなりと口から出た。これが大人なのか。  咲き始めたと思ったら気づくとすぐに散っていく桜。散った花はもう戻ることはない。 でも一つだけ聞いておきたい。 「なんで、俺だったの?」  本当は最初から疑問に思っていた。他にも話を合わせて助けてくれる人はいるだろう。むしろ俺より適任な人が、いくらでも。 「やっぱり聞いちゃいますよね。……狡いとは分かってはいたんですよ」 「今の彼は大学から付き合ってきて、お互いの色々なことも知っていて、これといって嫌なこともないし……だから、このままこの人と結婚するんだろうなと思っていたんです」  こちらに向けていた視線を逸らして、そこで下を向く。 「この会社に入社して、変な人いるなぁってずっと気になってたんです。偏屈で、拗らせているくせに、たまに優しくて……一緒に話していると楽しくて。……でも、上手くいっている今の彼と別れてまで新しい恋愛に挑む勇気はなくて……」  下に落としていた目線をもう一度僕に向けてくる。 「正直言うと、戸川さんのこと少し好き……だったんです」  だったという過去形の彼女の言葉で胸の中に最後に残っていた花びらも落ち切った。 「そう……」  なんて返せばいいのだろう。  彼女を見ると真っ直ぐと俺を見て微笑んでいる。  あぁ、なるほどな。  その顔から見て取れる。彼女はもう決めている。今更俺が何を言ったって何も覆らない。そんな顔だ。  俺に向かってお辞儀をする彼女。 「今日は……いえ。今まで、ありがとうございました」 「こちらこそ」  俺も形式的に返すだけ。何にお礼を言われているのかも、何に返事をしているのかも分からない。でも、終わりを告げるという儀式的なものだろう。 「美味しいご飯もいただいて、桜も見れたことですし、満足したので、これでわたし帰りますね。今日はご馳走様でした」  お辞儀をしていた顔を上げるといつも通りの笑顔だった。 「ああ、じゃあな。俺はもう少し……ここにいようかな」  少し頷いて、そのまま去って行く彼女。 その後ろ姿を見送る俺。  どんどんと遠くなって行く姿を見ていると、胸の中に冷たさが滲み浸透してくる。冷たさを冷たさだと認識するのは暖かさを知っているからだ。心は二人で過ごすうちに知らぬ間に暖かさを覚えていたようだ。 「気づくの遅すぎるな」  強い風が一瞬吹く。風が桜の枝を揺らす。  そろそろ春一番が吹く頃か。  その風に乗ってチラリチラリと河津桜の花びらが上から降ってくる。河津桜も俺の浅はかさに花を散らしてせせら笑っているのか。それとも情けないなと慰めてくれているのか。  河津桜。本格的な春を前にして咲いて散る早咲きの桜。その桜に自分を重ねる。いや、俺なんかと一緒にしたら河津桜に失礼か。河津桜はちゃんと咲いている。咲ききった上で散っていく。  俺は何もしないまま終わっている。  もっと早くに大切なものだと気づいて手を伸ばせば届いたのかもしれない。でも、そんな勇気を出せたのかは分からない。今だって、もしかしたらあの背中を追って抱きしめれば間に合うのかもしれない。でも、そのままでいたって幸せになるだろう未来が彼女にはあるのに、それを押しのけてまで自分に引き寄せることは出来ない。彼女だってずっと同じように思っていたのだろう。  手の平を上にして広げると一枚の花びらがそこに落ちてきた。咲いている花は濃い色に見えるのに、手のひらにあると花びらは薄く色づいてるだけ。俺の知っている桜の花びらそのものだった。それを優しく手で包み込んでみる。  次に大切なものが出来たときは、そのときは手を伸ばして掴んでみよう。  この花びらを持ってまた明日へ進んでいく。今は風邪を引いた時のような絶望感はない。風邪さえ治れば明日世界が終わる絶望感なんて襲ってきやしないから。  拗らせた心は雪解けのようにプラセボで溶かされた。  そう、ただ早咲きの桜が散っただけ。  次の桜はきっとまたすぐに咲くはずだ。
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