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「何これ、ほとんど萎びてるじゃない」
自宅へ戻り、明るい場所でよく見ると、ほとんどのリンゴは黒ずみ悪くなっていた。
返品するにもレシートも無いし、返品先も分からない。
「騙された……。夜中にあんな場所で、怪しいと思ったんだよ」
修羅場を経てへとへとなのに、更に自分よりもかなり若そうな男に騙されるなんて、踏んだり蹴ったりだ。
完全に腐っているわけじゃないので、傷んでいるものはジャムかパイにしよう。
その中でも綺麗なものを1個つかむ。
悪くならないうちに食べてしまおう。
適当に切ったリンゴを皿に並べ、爪楊枝を刺して食べる。
口の中で爽やかな甘さが広がる。
うん、味は悪くない。
シャリシャリと音を立てて、リンゴを無心で味わっていると、ブブッとスマホが振動する。
同僚からのメッセージだった。まだ働いているようだ。
『伊美さん、お疲れ様です。夜分にすみません。先方からの見積訂正の依頼が入ったので、お手隙で修正お願い致します』
あのクソ客か。一体何回やり直しさせれば気が済むんだよ。
毎回、項目の記載だとか、端数だとか、日付を小出しに訂正させやがって。
カバンの中からノートパソコンを取り出し、起動する。
えっと、見積書はどれが最終版だったか。
整理する時間も無くデスクトップに乱雑に保存されているたくさんのファイルを確認する。
疲れ過ぎて、ファイル名が頭に入ってこない。次第に瞼が重くなる。急激に睡魔が襲ってくる。
あ、そうだ昨日も一昨日も寝てなかったんだ。
ダメ……意識を保って……いられない。眠い……。
汗だくの彼氏と見知らぬ女が後背位で、交わっている。ベッドは激しくギシギシと音を立てて、揺れている。女の甘い声が生々しい。
手に持っていたドラッグストアのビニール袋が床に落ちる。今日の修羅場始まりだ。
ユメは、まるでドローンで撮った映像のような視点でさっきあったことを上から見ていた。
思い出したくない。吐き気がするほどの嫌悪感。いつからこんなことになってしまっていたのか。身体が怒りで震える。
そうこうしているうちに、時はどんどん巻き戻っていく。昨日、一昨日と映像が遡っていく。
あれ、過去へどんどん飛ばされている? 分かった、これは夢だ。でもやけにハッキリとしている。
ユメは目の前の光景をぼんやりと眺める。
夢ならいつか覚める。だからこの不可思議な体験も悪く無いような気がした。
しばらくすると画一的な紺のリクルートスーツを着て就活している自分が現れる。
薄っぺらな志望動機、青臭い理想を語る自分が、恥ずかしいと思う。この時はこんな将来が来るとは思わず、必死で皆と同じように就職先を探していた。
自分だけ、就職できないで卒業なんて恥ずかしいと思っていた。
今、面接をしている人事部長はとっくにブラック企業を退職し、もっと待遇の良い会社へ転職した。彼が語る美辞麗句は情弱な学生を釣るための釣り餌だったと今ならよく分かる。
ここからやり直せば、もっといい会社に就職できたのかな。
いやでもこの頃は、あの浮気彼氏と付き合いだして数ヶ月の時だ。唯一無二の存在に出会えたと思っていた。そんなラブラブな時期に別れを切り出すのは難しい。
将来、浮気するからって言っても納得してもらえない。争いごとは面倒かも……。
そんな妄想をするユメを置き去りにして容赦なく時間は遡っていく。
制服を着たユメが、友だちとダラダラと過ごしている。予備校を親に内緒でサボり、カラオケでぼんやりとした将来の不安を紛らわせるかのように歌い続ける。
懐かしいな。
もっと勉強すれば、あの偏差値の低い大学へ行く事もなかったのかも。
高校でもっと勉強すればよかった。周りに流されず、将来の不安から逃げずに行動すれば良かったんだ。
でも正直言って、勉強は苦手だった。高校になったらもっとついていけなかった。テストの点数はいつも赤点スレスレだ。女子高生最高なんて言いながら、ギャル気取りで遊び回ってたなぁ。
そうこうしているうちに中学生の自分が現れた。
細いまゆ毛に、長い髪を当時はやっていた茶色のゴムで結んでいる。白いソックスは、脛の途中の長さで、学校指定のダサいスニーカーは、かかとを踏んで履いていた。精一杯のおしゃれだった。
うわーダサぁ。
中学からもっと真面目にしておけば、いい高校、大学に行けたかもなあ。
中学で部活もっと一生懸命すれば内申点も良かったはず。でもあの時何考えてたっけ。恋愛のことばかり考えていた気もする。思春期全開で、少女漫画みたいな恋にあこがれていた。
今から考えると馬鹿みたいだ。
でも、でも……。分からない。どこから間違えてしまったのか。今まで何が原因でこうなったのかなんて考えたことがない。
ああ、どこまで戻れば人生をやり直せるのかな。どこで一体間違えた?
ランドセルを背負って登下校する自分の姿が現れる。小学生の頃は、何を夢見ていたんだろう。
少なくてもこんな大人になるなんて考えては無かったはずだ。皆同じ教室で、同じように勉強していたはずなのに。
分からない。何も覚えていない。日々の生活で精一杯で、自分のなりたい姿なんて振り返ることなどしなかった。
時はどんどん遡り、薄暗くぬるい母親のお腹の中にいる感覚がある。
ああ、ここにずっといたいな。外の世界は、辛いことしかないと分かっていたら。
どんどん細胞が分裂して、身体が小さくなっていく。心許ない存在感と生々しい感覚に、急に不安になる。
これは、夢だよね。こんな記憶があるなんて、細胞に残った記憶なのかな。
突然、背後から親し気な声をかけられる。
「おくすり、しっかりキマッテますねえ、お姉さん?」
「え? 誰? あれ、呼吸が苦し、空気が吸えな…………」
「大丈夫ですよ。リンゴが導いてくれ……。あれ、もう聞えてないみたいだ」
ゴホゴホと咳き込む。喉に何かが詰まっているみたいだ。息ができない。
えっと、これは夢だよね……? もう覚めるよね?
覚めたら見積訂正して、休日出勤しないと。仕事の合間に転職サイトへ登録して……、今度こそこんな会社辞めてやる……ん……だから。
「自身の過去に知恵はなく、自分を振り返り、状況把握し自ら行動する力なし。お姉さんの生きている意味ってあるんですかねえ? ざーんねん」
***
「ねーねー聞いた? 無断欠勤してた営業2課の伊美さん、亡くなったんだって。家族が遺体を見つけたらしいよ」
スマホでニュースを検索して、二人でコソコソと見る。
「えー怖い。しかも大々的に報道されてるんだ。社名出ちゃってるじゃん」
「過労死っぽくて、人事が対応に追われてるらしい」
「うちの会社ヤバいもんね」
もう一人の女子社員が、疲れた顔をしながら、無表情に呟く。家にはしばらく戻れていない。
「過労死、今年は20人くらい出たよね」
「ねーそう言えば、あの噂本当かな。亡くなった人の横にリンゴが落ちてるってやつ」
少しだけ声のトーンを落とし、ひそひそと話す。
「何それー、知らない。都市伝説? 毒リンゴってか? ウケる」
「いやーでもマジでさっさと転職した方がいいよね」
「でも転職活動する気力がないよ……。また新しい会社で、新しい仕事と人間関係を作るって考えると、まだここでもいいかなって思っちゃう」
「社畜脳だね……。人のこと言えないけどさあ」
「あ、そう言えばリンゴで思い出したけど、昨日終電で帰ったらさ、道でリンゴを売ってるかわいい男子に声かけられてさ……」
突然、二人の話し声が止まる。新しい業務がメールで送られてきたのだ。
栄養補給バーを口に入れ、栄養ドリンクで流し込む。パソコンに向き合い、虚ろな目をして、カタカタとキーボードを打ち始めた。
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