深夜のリンゴ売り

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 深夜、コツコツとヒールの音が人気のない公園に響いている。  伊美(イミ)ユメの足取りは重く、心身共に疲弊していた。  体調を崩し、会う約束をドタキャンした彼氏の部屋へサプライズでお見舞いに行った所、自分ではない女と睦み合っている場面に遭遇してしまった。  彼はおろおろと言い訳をし、女はユメが浮気相手だろと一方的に怒鳴る。  一週間全力で働き、金曜日を迎えて疲れ切っていたユメは、「分かったから、もう別れよう」と言うと彼は「別れたくない!」と大号泣。  絵に描いたような修羅場からなかなか離脱できず、家に帰るのがこんな時間になってしまった。  いつもなら夜の公園を避けて帰宅するのだが、半ばやけくそになり、つい暗い近道を帰り道として選んでしまった。  公園の電灯は、いつもはカラフルで騒がしい遊具を白く静かに照らしている。騒がしく平和な空間である公園は、眠っているかのようにしんとしていて不気味だ。  時折吹く北風が冷たく、肌に沁みる。混乱していた頭が冷やされ、次第に冴えてくる。  しかし、寒いな。ぶるると身体を震わせて、コートのボタンを閉め、マフラーを巻きなおす。 「ああ……幸せになりたいな」  ユメはぼそりと呟く。苦労して入った会社はブラック企業で、今日は二徹して何とか早い時間に上がってきた。  それなのに彼は、他の女にうつつを抜かし、あろうことか「お前が俺を放置するから、寂しくて浮気したんだ!」と逆切れ。全く報われない。   「どこで間違えたのかな、私の人生……」    ぼんやりと考え事をしながら、角を曲がると突然人影が現れた。   「こーんばんはっ!」 「――っ」    物音も無く人が目の前へ飛び出してきたので、驚きのあまり声が出ない。心臓が跳ね上がる。  若い男、だった。   「リンゴを売っているのですが、いかがですか! 十個千円でいいですよっ!」 「……はあ? リンゴ?」    まじまじと声をかけてきた男を見つめる。  スポーツドリンクのCMに出てくるような爽やかイケメンだった。  しかしその瞳は笑っているようには見えない。その瞳の奥には蛇のような狡猾さが滲んでおり、見つけた獲物は逃がさないというような迫力があった。  白のTシャツ、膝丈のジーパン、うっすら日焼けした健康そうな肌に違和感を覚える。  寒く……ないのかしら。いくら今年の冬が暖冬だと言っても十二月も半ばを過ぎている。  その様子の異様さに、通常の精神状態の時なら感じる危険を今日は感じない。ユメは、疲れ過ぎていた。  彼の持っている底の浅いダンボール箱に並ぶリンゴを一瞥する。   「こんな深夜の公園でリンゴを売っているの?」 「はい! 売り終わらないと会社に帰れないんで、仕方ないんですっ!」    悲壮感の無い元気いっぱいの大きな声は、疲労困憊の脳にガンガンと響く。こんな時によく分からないリンゴ売りを相手にしている心の余裕はない。  ユメは、「大丈夫です」とやんわりと断り、立ち去ろうとする。しかし男は軽快なステップを踏み、リンゴを持ってユメの進路を塞ぐ。男の熱い胸板がユメの目の前に広がる。   「えー、有機栽培で育った糖度の高いリンゴですよ!」    ユメはギョッとしながらも、面倒臭そうに断る。   「いや、今はいらないから……」 「じゃあとっておきをお教えします!」  何かとても大事なことを伝えるかのように、男は身をかがめ、ユメの耳元で囁く。 「それにリンゴは万病のおくすり、食べれば医者いらずなんて言いますから。おくすり、キマッテ、疲れも悩みもカイジンに帰しますよぉ?」  突然縮められた距離に驚き、後退る。  男の誘うような、魅惑的な声が頭をぐるぐると回るが、その声を振り払うかのように頭を左右に振る。  聞くだけ無駄だった……。ばかばかしい。   「他の人に売ったら?」 「そんな意地悪なこと、言わずにー、人助けだと思って、ね! お姉さん!」 「――むごっ」  突然、口に何かを突っ込まれ、変な声が出た。  次の瞬間、口内に広がるさっぱりとした甘み。   「な、何!?」 「試食ですよ。どうです、美味しいでしょ?」    ユメが、咀嚼するとすっと口の中でリンゴは溶け、ほのかな甘さだけが余韻を残す。  確かに、美味しいが、胡散臭すぎる。   「ねえ? 栄養満点で疲れた身体も癒してくれますよおー」    ぐいぐいとダンボールを身体に押し付けてくる。  もう一体、この子何なのよ。こっちは早くベッドへダイブしたいっていうのに!   「分かったから。買うから、ダンボールを押し付けないで」    ごり押しに負け、財布から千円札を取り出す。 「あざますー! これで退勤できますー!」  イケメンはひらめ筋を躍動させ、Tシャツを着ていてもわかる逞しい背中を見せつけながら、走っていった。
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