九、遺書

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男の耳が赤くなり、こめかみに血管が浮いているのが、風呂場からの明かりで見える。苦しそうな声も聞こえて、舌を吐き出しているのが分かる。 大丈夫。この体勢なら、俺がやり返される事は無い。 そう思っていたのに、明かりに影が差した。 槐さんが戻ってきた。 白い手が視界の端から伸びてくる。手に握り締めた何かを、俺の握っている帯に当てるのが見えた。 バツンッ! と、一気に裂けてちぎれる。 両腕に込めていた力をいきなり抜かれて、俺は後ろに倒れた。踏ん張っている事もできずに尻もちをついてしまった。 何が起こったのか理解するまで少しかかった。 帯が切れたらしい。 外で滝のように降り続いている雨の音が、また聞こえるようになる。 いつから聞こえなくなっていたのか。こんなにうるさいのに。 相手の男もその場に倒れて咳き込んだが、俺が立ち上がる前に、部屋から飛んで逃げ出した。 そばにいた槐さんまで突き飛ばして、玄関に靴も残したまま。 「馬鹿野郎!」 言ったのは槐さんの方だった。 あの逃げていった男じゃなく、俺に言っているらしい。 細長い体が、ゆらっと立ち上がる。少し乱れた金髪で、Tシャツとハーパンも昨日のままだ。 次の瞬間、雷が落ちた。窓の外が真っ白に、フラッシュみたいにビカビカ光る。 手の先に、長いカミソリを持っているのが見えた。いつも風呂場で見ていたやつだ。 あれで、帯に切れ目を入れたらしい。普通に考えて、帯が簡単にちぎれるはずがない。 「人殺しになる気か! 正気の沙汰じゃない!」 怒鳴りつけてくる槐さんに、俺は静かに言い返すしかなかった。 「ああそうだよ……俺もう、とっくに正気じゃない。あんたも知ってんだろ。あんたがこうしたんだ、あんたが俺を狂わせたんだよ」 頭の先から足までびしょ濡れで、顔に流れてくる。 尋常じゃない汗をかいていた。体は冷たいのに、腹の中が吐きそうなほど熱い。
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