九、遺書

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馬鹿野郎でも人殺しでも何でもいいから、今からでも、さっきの男を追いかけたい。追いかけて行って、今度こそ殺してやりたい。 それなのに、もうどこに行ったか分からない。 何もかも手遅れだ。取り返しが付かない。情けないやら、悔しいやらで泣きたくなった。 「じゃあ私を殺せ」 槐さんは、はっきりそう言った。 俺は、その顔を見上げるしかなかった。聞き間違いかと、聞き返す事すらできなかった。 また雷が光って、槐さんの顔の半分を真っ白に照らす。 「君が憎むべきは私だ。男なら、怒りを向ける相手を間違えるな」 柳みたいな眉毛を釣り上げて怒っていた槐さんの調子が、いつもの、感情のない声に戻ってくる。 「あんなどこの馬の骨とも知らない男より、さんざん自分を誑かして、どれだけ腕に抱いても、すり抜けていく私のことが憎いはずだ」 何もかも自分が原因のくせに、他人事みたいに言ってくる。 男に抱かれている時以外、葬式みたいな暗い顔をして、この世の何もかも面白くないという風なこの態度が、俺はずっと嫌いだった。 何と言えばいいのか分からないでいると、あの人はまたいつものように、知った風で言い聞かせてくる。 「これまでの男も、そうだったからな。本多家の男は……私を殺し損ねてきたんだ」 また、昔の男と比べられるように言われて、プライドもズタボロだ。 けど、それで納得がいく。 例えば首を絞め慣れていたのも、自分で人生を歩む事に対しての執着が薄そうなのも。 この人はとっくの昔に、自分の意思で生きる事自体を諦めていたのだ。 狂ってしまった男から、心中しようと言われた事もあるに違いない。下腹の傷も、その誰かから付けられた物だろう。 それを拒みすらしなかった。殺されそうになる事にすら慣れてしまって、死ぬ事自体が、もう怖くない。
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