九、遺書

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マンションのエントランスに、人影が見えた。長い髪の、女だ。 誰かを待っているのか、自動ドアの所にずっと突っ立って、様子をうかがうように中を見ている。 このマンションの住民では、ないらしい。 不審者だとしても、通報もする気になれない。今の俺にはスマホも無いし。 もちろん挨拶すらできる状態ではない。 頭から足まで、川に落ちたみたいにずぶ濡れだ。両手で髪をかき上げる動作をしてから、すっかり短くしたのを思い出した。 エントランスの空調が、ますます体を冷やしてくる。 「いーすか、そこ」 後ろから脅すように低い声で言って、女の前に体を割り込ませる。相手の反応なんか気にしていられない。邪魔な位置に立っている方が悪い。 住民用のキーカードをサイフごと当てて、自動ドアを解除した。 一瞬、同時に入られてしまうかと思ったが、女は動かなかった。 すぐそこにあるエレベーターを待っている間も、髪や顎から水滴が落ちて、背中にはじっとりした視線を感じる。 なんすか、と振り返りそうになって、奥歯を噛んだ。 これ以上の面倒事は御免だ。他人に構っている場合じゃない。 エレベーターに乗ってボタンを押す拍子に、目が合った。 思っていたより若い女だ。 見覚えがある気もしたが、誰かは分からなかった。 部屋に着くなり、濡れたまま、床のタオルケットに潜り込んだ。電気も、エアコンも点けず、頭まですっぽり隠れる。 引っ越してから何日間こうして床で寝ているのかも、もう数えなくなった。 組み立て途中で放置しているベッドには、うっすらホコリが溜まっているほどだ。 自分の生活が疎かになるほど、俺はあの人に狂っていた。
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