さよならの精霊馬

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 お兄ちゃんはこの季節になると、かならず野菜で車をつくる。お兄ちゃんは不器用で、最初に作った車は、なすに突き刺されたはしにタイヤをつけただけ。いびつなかっこうのそれは、妹のわたしから見ても不格好で、同級生のおとこのこが作ってきた工作よりも下手だった。  次の年には、ガタガタして浮いていたタイヤがきちんとそろった。その次の年には座席とライトがついた。毎年少しずつ改良されていって、何年も何年もかけてだんだんと誰がみても立派な車になっていった。  今年はなんと、なすときゅうりを最大限に駆使して作られた、スポーツタイプのオープンカーだ。野菜のやわらかなフォルムがみごとな流線型になっている。いまではたいしたものだと感心されても、下手くそなんて笑われることはないだろう。  居間のちゃぶ台の上には新聞紙がしかれて、そのうえには削られた野菜のくずが散らばっていた。お兄ちゃんは作った車を見て満足そうにうなずいた。 「これも、つくり納めだなぁ……」  しみじみとそう言って、それから新聞の上の野菜くずを新聞紙ごと一つにまとめて、かたつけはじめる。 「もう作らないの?」  毎年どんどんすごくなっていくから、それはいつからか私のお盆の密かな楽しみになっていた。それがなくなると聞いて、おどろいてしまう。 「うん。……マサキに悪いからね。もう、これでおしまい」 「どうして?」 「もうそろそろ区切りをつけたいから」  そう言ったお兄ちゃんの顔がやさしくて、でもさみしそうでわたしは何も言えなくなってしまった。それにマサキくんに悪いってどんな意味なんだろう。  マサキくんはお兄ちゃんの恋人で、秋から一緒に暮らすらしい。まだ会ったことはないけれど、あさっての花火大会を見がてらあいさつに来ることになっていた。  最初電話でそれを聞いたときはおどろいた。けれど、おどろきがらもどこか納得してすぐに祝福した両親をみていると、もしかして両親はなにかわかっていたんじゃないかと思う。  かたつけが終わったお兄ちゃんは、その立派な野菜の車を、お座敷に作られた盆棚へとそっと置いた。今年は特に細かい部分まで作り込まれて、うっかり触ったら壊してしまいそうだった。  私はそんなお兄ちゃんのうしろをただ付いて歩いて、大切そうにそれが飾られるのを見ていた。 「美希……ヒマなの?」 「なんで? ヒマじゃないけど」 「女子高生だろ? デートするとかさぁ、友だちと遊ぶとか、バイトするとか、なんかないわけ?」 「だって、お兄ちゃん帰ってきてるし」  十二歳年上のお兄ちゃんが返ってくるのは、お盆くらいで、そのときくらいしかわたしはお兄ちゃんには会えない。お兄ちゃんが大学の進学で家を出ていく時、わたしはまだ保育園だった。年上のやさしい兄は私にとってのじまんで、今思えば自分の恋人のように思っていて、堂々と将来はお兄ちゃんと結婚する、と言っていたほどだ。  大学生になって上京して別々に暮らすようになって、最初は帰ってこないお兄ちゃんに怒っていたけれど、私はやっぱりお兄ちゃんが大好きで、お兄ちゃんが帰省するたびにお兄ちゃんのあとをついてまわった。  それは高校生になったいまでも変わらない。お兄ちゃんが来るのなら、お兄ちゃんを最優先にするのは当たり前なのだ。 「美希はいつまでもお兄ちゃん子だなぁ」  そう言ってお兄ちゃんはわたしの頭をぽんとなでる。昔はもっとおおきく感じていたのに、いつの間にかお兄ちゃんのとなりに並べるほどわたしはおおきくなっていた。 「でもさすがに、もうお兄ちゃんと結婚しないよ」 「良かったよ、いまでもそう言われたらどうしようかと思った。なに、恋人でもできた?」 「わたしはできてないけど。友だちが彼氏つくっちゃってひまなの」 「あぁ、高校生だもんな。そういう時期だな」 「お兄ちゃんはどうだった?」  何気なくきいたひとことに、ぴたりとお兄ちゃんの動きが止まる。 「……そうだな。もうオマエもあのころの俺と同じ年になったんだなぁ」 「なに?」 「こどもみたいだけど、美希もこどもじゃないんだと思って」 「あたりまえじゃん」 「でも、俺が家を出るまでずっとこどもだっただろ。けどもうあのころの俺と同じか……」  やけに感慨深く言われて、わたしもお兄ちゃんが高校生のときを思い出してみようとした。でも小学生にもならない頃の記憶はあいまいだ。あたまの中にある、写真みたいな記憶をいくつかひっぱりだす。その中のいちまいにお兄ちゃんとそのともだちを見つけた。  お兄ちゃんと同じ制服、図々しくていじわるで、だけどきらきらの笑顔でわらうひと。たまにお兄ちゃんと一緒に学校から帰ってきた、あのひとの名前はなんだっけ。 「……なんかさぁ、お兄ちゃんの友だちで、トモ…なんとかくんていなかったっけ? うちによく来ていて……」 「あいつのこと覚えてんの?」 「なんとなく。名前もうろ覚えだし。なんて名前だっけ?」 「トモヤ、だよ。美希はすごくなついてたけど、小さかかったから忘れたのかと思ってた」 「いままで忘れていたけど、いま思い出して」  そう言うと、くしゃりとお兄ちゃんの顔がくずれる。 「あのころの美希、トモヤと結婚するって言ってたんだよ」  そうだったかも。そういわれるとなんとなくそんな覚えがある。だけどわたしはそれをあきらめて……、どうしてあきらめたんだっけ? そうだ、たしかトモヤくんに結婚できないって言われたんだ。そうたしか……  ――美希ね、トモヤくんとけっこんする!  わたしはよくトモヤくんに抱っこをねだってはそう言っていた。トモヤくんはわたしを抱いてあそんでくれ、調子よく「いいぞー」なんて返事をしていた。  だけどあるとき。いつもどおりにそう言ったわたしに、トモヤくんはこっそり教えてくれたのだ。  ――内緒だけど、ほんとうは叶人と結婚する約束してるから、美希とは結婚できないんだ。ごめんね。  お兄ちゃんと結婚すると言ったトモヤくんに、わたしはおこって絶交した。ぷいとよこを向いたわたしに困ったトモヤくんと、わたしたちの様子におろおろするお兄ちゃん。  ひとつ思い出したら、つぎつぎと出てくる思い出にじぶんでおどろく。 「あたし、トモヤくんはお兄ちゃんと結婚するから結婚できないって言われたんだ……」 「えっ!?」 「ひみつだから内緒にしてって言われて、怒って絶交しちゃったんだよね」 「……そっか。トモヤがそんなこと……」  わたしのことばに、お兄ちゃんは黙ってしまう。当時のわたしは男女のちがいなんてわかってもいなかったけれど、内緒で教えてくれたのは、いま思えば男同士だったからで、本当のことだったからかもしれない。  そういえばわたしの中のトモヤくんの記憶はそこで終わっている。そのあとに仲直りした記憶がない。もしかしてお兄ちゃんたちは、わたしのせいでけんかしたりしたんだろうか。にわかに不安になる。  けれども十年以上まえのことで、いまさらどうしようもない。それにいまお兄ちゃんには一緒に暮らそうとしている恋人がいる。……わかってはいるけど、気になった。 「トモヤくんて、いまどうしてるんだろうね?」  何気なく聞いてみた。 「美希は知らないんだっけ? トモヤ死んだんだよ。高校生のとき。うちに来なくなっただろ」 「そうなの!?」 「美希は小さかったし、知らないよな。交通事故でね……」 「ごめん。知らなくて……」 「いいって、昔のことだし。それに、俺と結婚するって言ってたって? ……まさか、いまになってトモヤの新しいこと知るなんてなぁ」  お兄ちゃんはうるんだ声でそう言って、つくられたばかりのこびとでも乗りそうなスポーツカーの精霊馬を見た。  お盆の間は故人がこの世に返ってくるんだって、お父さんが言っていた。そしてお盆の間だけは、故人を偲んで悲しんでもいい期間だって。  もしかして、これはトモヤくんのためにつくっていたのかもしれないと思った。 「トモヤくんて、車好きだった……?」  わたしの質問には答えず、見たことのない表情のままのお兄ちゃんが、わたしを見てにこりと笑う。 「しんみりしちゃったな。母さんのとこ、行こう。お墓に行くって言ってただろ」  そう言ってぽんと頭に乗せられた手はもう、わたしのよく知るお兄ちゃんのものだった。  けれどそのあとのお兄ちゃんはどこか上の空で、わたしはトモヤくんの話をしたことを後悔した。  あさってはお兄ちゃんがはじめて家族に恋人を紹介するはずだ。うちの家族にとってははじめての一大行事だ。それはきっと、両親やわたしにとってより、お兄ちゃんにとって大切なはずなのに、もしかしてわたしは水をさしてしまったんじゃないだろうか。  その夜。お盆の一日目の食卓はごちそうで、久々のお兄ちゃんの帰省に浮かれたような、でもあさってのこともあってみんな妙に緊張していた。  お母さんはマサキくんの好物や好きなこと、色んなことを聞きたがった。お兄ちゃんは照れくさそうにしながらもそれに答えて、お父さんはときおりさり気なく話題をそらそうとした。わたしはお母さんに便乗して話を聞きながら、少しだけ面白くなかった。  大好きなお兄ちゃんのしあわせそうな顔が嬉しくて面映ゆいのに、わたしのことにはそんな表情しないのにって思った。でも悔しいけど、お兄ちゃんがマサキくんを大好きなんだってことだけはひしひしと伝わってきた。  おひらきになって自室に引っ込んでからも、興奮したまま眠れずにベッドに転がってお兄ちゃんのことを考えた。そうしていると、キィと小さく玄関のドアが開く音がして、わたしはベッド横の窓から外を見下ろした。  わたしの部屋からはちょうど玄関の外が見えて、お兄ちゃんがそっと外に抜け出す姿を、月が照らしていた。  夏のはじまりににぎやかに鳴いていたカエルの声はもうしていなくて、転がるような虫の音がお兄ちゃんの足音をかき消すみたいだった。わたしは思わず追いかけたくなってベッドに上におきあがったけれど、ギシとベッドのきしむ音を聞いてそれを止める。  夜風に吹かれながら月を連れたお兄ちゃんは、たぶんきっとわたしと同じに歩きなれている道を、ゆっくりとゆく。  きっとわたしの存在は、いまのお兄ちゃんにとってこのベッドみたいな音なんだと思う。いまお兄ちゃんが欲しいのは、静寂か、にぎやかな虫の音か、それとも別の声なのかわからないけれどきっと、それはわたしじゃない。  兄妹で、わたしが生まれたときからお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんがこの家を出ていった十七歳までの五年間、毎日いっしょにいた。それから家に帰ることが少なくなっても、会う度にお兄ちゃんはわたしをかわいがってくれた。  なんとなく、わたしはお兄ちゃんのことを良く知っていると勝手に思っていたことに、いまさら気づいた。ほんとうは、わたしの知らないお兄ちゃんの方がたくさんなのに。  うっすらとしたさみしさに、少しだけ月がにじんだ。  翌日のお兄ちゃんは、いつもどおりのお兄ちゃんだった。明るくてやさしくて、でもときおりちょっとだけわがままなときもある、そんなお兄ちゃん。  次の日にマサキくんを迎えに行って連れてきたときも、緊張した表情で家族に紹介したときも、わたしの知っているお兄ちゃんだった。  マサキくんはお兄ちゃんよりもっと明るくておおきくて、イケメンてほどではなかったけれど、お兄ちゃんはこういうひとが好きなんだ、なんて思った。すこしだけ、わたしの記憶のかけらにあるトモヤくんに似ている気がした。  それでなんとなく、すこしだけお兄ちゃんがとおく感じて、ふいに記憶にもどったトモヤくんの『お兄ちゃんと結婚する』ということばを思い出した。  そうして、お嫁にだすってこんな感じなのかもしれないと思う。わたしの知らないお兄ちゃんがふえて、わたしの手が届かないお兄ちゃんがふえる。  だけど――、と思う。  お兄ちゃんがマサキくんにむける瞳。マサキくんがお兄ちゃんを見つめる瞳。それにはまぎれもない愛しみの瞳だった。  こんなにそばにいるだけでどこかむず痒くなるほど、互いに真っ直ぐな愛情を感じたのははじめてで、わたしはそれだけでなんだかどぎまぎしてしまう。  そうして結婚てこういうことなのかな、なんて思う。  あの日、真夜中にこっそり帰ってきたお兄ちゃんは翌朝遅くまで寝ていて、わたしが起こしに行った。何年かぶりに見るお兄ちゃんの寝顔はすこしおさなくて、目元があかくはれぼったかった。わたしにはなにもわからないけれど、区切りをつけたいだなんて、そんなことできないから言っているみたいだと思った。  けれど、きょうのお兄ちゃんは心底しあわせそうにみえる。  ――しあわせを、人生を一緒に。  お兄ちゃんはそういうひとをみつけんだ。  いつかわたしもこんなふうに思えるひとができるんだろうか? あんな瞳でだれかを見つめることがあるんだろうか? いまは想像もできないけれど、いつか――。  そうして、あこがれとすこしの寂しさを残して、ことしのお盆が終わった。
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