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0.5話 指宿千晃という男
華美な装飾が施されたスイートルームの一室では、キングサイズのベッドの上に質のいいシーツと裸の女が横たわっていた。
「ねぇ、今度千晃の家行ってもいい?」
気怠げにそう聞く女を一瞥もせず、彼女に背を向けた長身の鍛え上げられた肉体は、軽薄な口調とは裏腹に無感情な言葉で手短に答える。
「あぁ、考えとくね」
そう言うと男は、淡々と装備するかの様に順番に衣服を纏っていった。
「僕はもう出るから、君は朝までゆっくりしてってね」
この部屋へ来た時と同じ様に隙なく身なりを整えると、形だけの愛想と言わんばかりに振り向き、女にそう言い残した。
男は後ろからぶつけられる不満声は無視して、さっさと上階の部屋を出て行ってしまった。
「あーあ、潮時かぁ」と指宿 千晃の心の中で落胆の声が漏れる。「面倒臭いこと言わないところが好きだったんだけどなぁ」という言葉は、本人にそのままぶつけていれば殺傷沙汰に発展したかもしれない。そう考えると、少しだけ背筋が寒くなった。
ホテルを出て人通りが少ない大通りを歩くと、指宿は悠々と流しのタクシーを停めた。長い手足を折りたたんで乗り込むと、運転手に自宅の方角へ向かう様に声をかける。過ぎ行く街並みをぼんやりと眺めていたが、次第に興味も無くなってゆっくりと瞼を下ろした。
タクシーの車内には薄らとラジオが流されており、聴く気もないのに嫌でも耳に入ってくる。
「続いてのお便りは東京都のロングコートチクワさんから。最近職場で気になる人がいます。その人は数ヶ月前に自分の部署に異動になったのですが、気が利いて頭の回転も良く、彼女の気立ての良さに好意を持ってしまいました。もっと仲良くなりたいのですが、ガードが固く中々距離が縮まりません。どうすれば彼女とお近づきになれるでしょうか?…というご相談ですねー」
くだらない内容だな、と心の中で一蹴してふとある事を思い出す。そう言えば来週から半年間仕事で新しい環境に身を置くことになっていたんだっけ。
祖父の提案に乗っかってしまったのは少々厄介だったな、と思いつつも新しく何かを始める事は割と楽しみだったりする。
沸き立つ好奇心を抑える様に目を瞑ったまま、ゆっくりと深呼吸をして、背もたれに体を預けた。先程まで耳障りだったラジオの音も、今は何だか妙に心地良く、疲れた指宿の眠気を誘った。
新しい朝に繋がって行くように、今日という夜が溶けていく。
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