薬の女官

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「薬は嫌じゃ! 絶対に飲まぬ!」 「我が儘を言ってはいけません。 東宮として、お上が無病息災であることを願い、正月の三日間は、お上とともに屠蘇(とそ)を飲むのがしきたりなのです」 「屠蘇は、とてつもなく苦いのでしょう? 飲んだら体がおかしくなってしまう! 誰が飲むか!」 「苦いからこそ効くのです。苦さに神秘の力が宿っているのです。薬とは、そういうものです。そなたが屠蘇を拒んだが故に、お上に何かあったらどうするのです?」 「ううむ……」  日頃は帝の傍らに淑やかに座し、東宮の躾は家臣に任せている妃が、このときばかりは母親の顔をして頑固な東宮を黙らせた。  実は、妃も東宮を守ろうと必死だった。東宮の屠蘇は、その年の東宮の健康を神に祈念し、内薬司(ないやくし)が用意するものであった。しかし、それを言えば東宮は、 「屠蘇など飲むのなら、病に罹った方がましじゃ! どうせ病に罹れば、薬を飲めと言われる。そのときに飲めば良い!」   と、言い出しかねない。  東宮は、三歳の折、庭の胡頽子(ぐみ)の木の実を、女官に隠れて拾って食べ腹を下した。  そのときに初めて「薬」を飲んだのだが、腹の痛み以上に薬の苦みがつらく、それ以降、胡頽子を食べることも薬を飲むこともしなくなった。  さすがに、慕い敬う父が息災であって欲しいという思いは東宮にもあり、いやいやとはいえ、屠蘇を飲むことは受け入れさせることができた。しかし、ほっとしたのも束の間、東宮は「飲んでやるからには」という顔で、身勝手な条件をつけてきた。 「わたしは、後宮の尚薬(くすりのかみ)(おうな)が嫌いじゃ。しなびた指で薬を差し出し、こちらが飲み込むまでじっと睨み付けてくる。あれでは、せっかく屠蘇を飲んでも喉を通らず、吐き出してしまうかもしれない。屠蘇は、別の者に届けさせてくだされ」  尚薬は、後宮の薬司の長であり、正月の朝、帝や東宮に屠蘇を捧持(ほうじ)するのは、尚薬の務めと決まっている。別の者が、簡単に成り代わることができない役職である。  おそらく東宮はそれを承知していて、尚薬が気に入らぬ態度をとったことを理由に、屠蘇を吐き出すつもりでいるのだろう。妃は、そのように推察した。  後刻、帝にそのことを伝えると、帝はすぐさま内薬司を呼び出した。 「利発な皇子さまでございますね。これなら、諒国の前途は洋々でありますな」  帝の話を聞いた内薬司は、男とは思えぬほど滑らかで白い手を口に当て、「ほほっ」と笑ってからそう言った。  日夜典薬寮にこもり、医薬の神にその身を捧げ職務に励むこの男は、日に当たることなど滅多になかった。それでも、なぜか世故には長けていて、医薬以外のこともよく見知っているという不思議な人物であった。 「お上、どうぞこの件、わたくしにお任せください!」  最後に内薬司から発せられた自信に満ちた言葉は、帝の心の愁いを払拭した。  何もかも、この男に任せておけば安心だ――、と思わせた。  すっかり安堵した帝は、満足げにうなずき、「良きに計らえ」とだけ述べた。
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