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東宮は、「うむ」とつぶやき、盃を口に運んだ。
わずかな量を口に含んだが、とんでもない苦みが口の中いっぱいに広がった。
東宮は、ここで屠蘇を吹き出し、「このようなものは飲めぬ!」と叫びながら、盃を床に投げつけるつもりでいた。しかし――。
かすかに眉をひそめ、不安げに東宮の顔を見つめる薬司と目が合うと、とてもそのような無法な振る舞いはできないと思った。自分がしたことで、この薬司が咎められるのは耐えられない、無事に屠蘇を飲み終え、薬司が尚薬からほめられるようにしてやりたい――とさえ考えてしまった。
東宮は、薬司に言われたとおり、三度に分けて一杯目の盃の屠蘇を飲み終えた。
二杯目、三杯目と盃は大きくなり、注がれる屠蘇の量も増したが、苦みに耐え東宮は盃を空にしていった。
最後の屠蘇をようやく飲み終え、薬司に盃を返すと、彼女はほっとした顔になり深く叩頭した。
「それでは、明朝は、白散をお持ちいたします。本日は、これにて失礼いたします」
薬司は、屠蘇の苦みにひたすら耐えている東宮にそう言うと、静々と退出していってしまった。しばらくして、ようやく吾を取り戻した東宮は、薬司の名前さえ聞かなかったことを後悔した。しかし、また明日も会えるということに気づくと、なぜか一人微笑んでしまった。
緊張から解放された女官たちは、笑いをこらえながらその様子を見守っていた。
翌朝も、懸命に盆を捧げながら、小さな薬司は東宮の元を訪れた。
あいさつを交わし、昨日と同じように、東宮は白散を注いだ盃を彼女から受け取った。
屠蘇以上に苦い薬酒であったが、東宮は堂々と飲み干した。
今日もまた、三杯目の盃を空にする頃には、唾を飲み込むのさえ辛くなるほど喉に苦みが溜まり、東宮は、薬司に何も声をかけられぬまま、黙って見送ることになってしまった。
そして、とうとう三日目となった――。
今日は、度嶂散という極めて苦い薬酒が運ばれてくることになっている。
東宮は、この二日間の経験で、薬の苦さに耐える自信を身につけていた。
今日こそは、最後に薬司に話しかけ、名前を聞き出そうと思っていた。
鈴の音と共に現れた薬司は、いつにも増して愛らしく、東宮は彼女の所作の一つ一つをうっとりと見つめていた。
盃に注がれた度嶂散は、覚悟を決めて口にしたものの、喉が焼けるかと思うほどの苦さで、一口飲むたびに、東宮の背中を冷たい汗が流れ落ちていった。
目を閉じて、最後の盃の薬酒を飲み干した瞬間、気を失う前に東宮は喉から声を絞り出した。それは、幼子の口から発せられたとは思えぬ、ひどくしわがれた声だった。
「そ、そ……、そなた、……名、名は……、なんと……申す?」
薬司は、盃台に盃を置きながら、にっこりとして言った。
「わたくしは、フジナと申します――」
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