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「あなたはわたしの祖母を騙そうとしましたよね。いえ、あなたではなく、あなたのお父さんでしたが」
わたしはその言葉を聞いて、すぐに逃げるべきだったと後悔した。
ただ、たしかにこの人物の祖母を騙したのは父だったので、辛うじて言い逃れはできるだろう。
だから、口を噤むことにした。相手の本心を知る前に余計なことを言うべきではないと判断した。
しかし、次の言葉に、わたしは声を思わず漏らしてしまった。
「ありがとうございました。わたしたちを騙そうとしていただいて」
「……どういうことですか?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。意外過ぎる言葉に、反射的に言葉が飛び出してしまった。
だが、ここで言葉を重ねるのも愚策だ。あくまでも、話に興味が湧いた、という体は保っておく。
「当時、祖母は体調を大きく崩し、何度も入退院を繰り返していました。そして、祖母は人が羨む程度に、祖父から相続した資産を保有していました。まあ、だからあなたのお父さんが来たんでしょうけど」
その通りだ。父は病を患っている資産家を狙って偽薬を売りつけることが多かった。病を患っていれば、思考は鈍っているし、精神も弱っているだろうから。だから、この人物の祖母はまさに父の標的となった。
「実は、あなたのお父さんが来る前、我が家は荒れていました。早い話が、祖母からの相続の話がうまくまとまっていなかったんです。いや、そもそも死んでもいないのに相続の話をすること自体、おかしな話なんですけど」
「……まあ、そうですね」
「そうですよね。だけど、相続の話が僕の父、僕の父の兄、姉と三人の間で始まってしまったんです。三人は元々仲が良かったので、祖母の体調が崩れる前から、三等分、ということで話はほとんどまとまっていたんです。でも、横やりが入った」
苦悶の表情が浮かんだ。
「父の兄の奥さんが、取り分について文句を言い始めたんです。長男なのだから三等分以上にもらえるべきだと」
「……完全な横やりですね」
「厄介だったのは、父の兄は奥さんに頭が上がらなかったことでした。父の兄は事業に失敗し、それを奥さんのお父さんにフォローしてもらっていたんです。それ以来、完全に上下関係が出来上がってしまった。だから、奥さんにそう言われた以上、父の兄はそれを代弁することを余儀なくされたんです」
相続問題として、よく聞く話ではある。当人同士ではなく、配偶者などの第三者の横やりによって、話が拗れてしまうケースだ。
「しかし、これに反発したのが父の姉でした。父の姉は祖母の近くに住み、面倒を見ていました。だから、それは納得がいかないと。それでいくならば、自分がもっともらえるべきだと主張し始めてしまったのです」
言いたいことはわかるが、それを決めるのは被相続者である祖母だ。家族であっても、勝手に決めていい話じゃない。
「わたしの父は静観していたのですが、二人はヒートアップ。祖母に遺書を書くように迫りまくったんです。祖母は三人に仲良くして欲しかった。だから、遺書を書くとしても三等分だ、と言い張りました。しかし、ヒートアップした二人はそれを許しませんでした」
嘆息が漏れた。よほど嫌な記憶なのだろう。
「話し合いはまとまらず、結局、祖母と父の兄、姉は大喧嘩。わたしの父は困り果て右往左往。仲の良かった家族は瞬く間にバラバラになってしまいました。いい年して何してんだろ、と思いますが、やはりお金というのは人を変えてしまうんですね」
彼は苦笑しながら、海を遠い目で見た。
「ですが、そこに救世主が現れた」
「救世主?」
「あなたのお父さんです」
「……御冗談を」
完全に口を滑らせた。予想外過ぎる言葉のせいで、いつもみたいに思考できていない。
「冗談に聞こえるかもしれませんが、本当なんです。先に言っておきますが、祖母はあなたのお父さんに騙されてなどいません。最も、お金を渡したという結論は変わらないので、どっちでもいいんですけど」
「騙されていない?」
でも、彼も言っていた通り、彼の祖母からお金は受け取っている。それも、わたしが行ってきた悪事の中では最高額を。それを騙されていないと言われても、にわかには信じがたい。
「はい、祖母は自分の意志であなたのお父さんに……いえ、あなたにお金を贈ったのです」
「ちょっと待ってください。意味がわかりません。当時のわたしはまだ中学に入学したばかりです。詐欺行為なんて働いていません」
「もちろん、その通りです。あなたのお父さんを通して、あなたにお金を贈ったのです」
「……どういうことですか?」
「祖母は人として優れた人でした。困った人がいれば、手を差し伸べる善人でした。祖母はお金が家族を崩壊させるのなら、そんなものはいらないと考え始めていました。そこにあなたのお父さんが登場した。とはいえ、祖母はあなたのお父さんに一円足りとて渡すつもりはありませんでした。しかし、あなたのお父さんはあなたを伴っていた。それを見て、お金を贈ることに決めたのです」
「……わたしにお金を贈った? どうして?」
「あなたの将来を憂いたのです」
その言葉がどすんと胸に重しとなって落ちてきた。
「祖母は言っていました。まとまったお金を贈れば、もしかしたら、あなたの父は悪行から足を洗うのではないかと。あなたの父が悪行から足を洗わなければ、あなたの将来は暗い。恐らくは同じ道をたどってしまうだろう、と。だから、それを食い止めたい。でも、わたしにできることは少ないと。だから、できること、お金を贈ることを決めたと言っていました」
わたしは思わず目を逸らした。その期待に、わたしは応えられていないから。
「祖母はまとまったお金を、騙されたふりをして、あなたの父に渡しました。そして、これは祖母のもう一つの作戦でもあったのです」
「作戦、ですか」
「祖母は言い放ったのです。家族がバラバラになるぐらいなら、わたしは名も知らぬ人に全額渡すと。その言葉は強烈に刺さりました。だって、詐欺師にお金を渡す程の決意だったわけですから」
なんとも豪胆な祖母だ。しかし、同時にこの祖母が家族の絆というものをどれほど大事にしているかも、伝わってきた。
お金などどうでもいい、というのが嫌という程伝わってくる。
「それで、父の兄と姉は目が覚めました。まあ、現実的な話として、これ以上話を拗らせてしまっては、本当に全額、見知らぬ誰かに贈ってしまうことを危惧したのでしょう。しかし、この一件で話はまとまり、遺産は祖母の言う通り、三等分することになりました。実際、そうなりました」
だから、と彼は続ける。
「あなたの父は、わたしたちの家族の崩壊の危機を救った救世主、というわけです。正しく言うのなら、あなたの存在が、わたしたちの家族を救ったんです」
わたしは言葉にならなかった。まさか、父の悪行が誰かを救う行為になっているとは思わなかった。
「それで、あなたは今、幸せですか?」
その言葉に、わたしは何も返せない。幸せかどうか問われれば、幸せではない。たしかに偽薬を売ったお金で豪遊はできている。だが、それが幸せかと問われれば、違うと断言できてしまう。
正しく言おう。幸せでないという事実から目を逸らすために、豪遊を重ねている。たった一人で、分かち合う誰かもいないままに、豪遊を楽しんでいるふりをしている。
束の間、彼はわたしの沈黙に付き合ってくれた。
しかし、しばらくすると、やおら立ち上がった。
「祖母の見込みは甘かった、ということなんでしょうね。あの祖母ですら見誤ることがあるんですね」
残念そうなその言葉に、胸が詰まる。
「そろそろ僕は行きますね。これから仕事に行く準備をしなければならないので」
わたしは立ち上がれない。何も言えない。
「僕の仕事、警察官なんですよ」
そうわたしに笑いかけてから、彼はいなくなった。
わたしはその場から動けなかった。ただただ、海を眺め、自分の行いを思い返すことしかできなくなっていた。
夕日が沈みかけた頃、わたしはようやく立ち上がった。
そして、靴を投げ捨てて、バシャバシャと音を立てながら、海で足を洗った。
~FIN~
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