白無垢の恋唄

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 蛇口を思いきり開ける。勢いよく吹き出た水が顔にかかった。冷たい感触が汗ばんだ肌には心地よかった。  美月は流れる水を手のひらですくうと、何度か顔を洗った。蛇口を閉めると目の前に現れたのは白いタオルだ。 「はい、使って」  穏やかな二俣(にまた)先生の声だった。最後の行射(ぎょうしゃ)が乱れてしまったから、情けなさはあったが美月は素直にタオルを受け取り顔を拭いた。 「ありがとうございます」  振り返って頭を下げると、改めて顔を見る。眼鏡の奥に見える細い目は気にしてないとでも言いたげに、微笑んでいた。 「タオルもらっておくよ」 「いえ、いいです。部の物なのでこっちで洗って返します」 「……そうか」 「はい。本当にありがとうございます」  美月はまた軽く頭を下げると、更衣室に向かおうと足を向けた。 「あ、ちょっと、古塚(こづか)さん」 「はい、なんでしょうか?」 「あまり気にしないでね。あの子達、最近あまりに度が過ぎるから、ちょっと生徒指導の先生とか、他の先生にも相談してみるよ」  二俣はいかにも深刻そうに眉をひそませると小声でそう言った。あの子達、というのはあくまでも野次馬の男子生徒達のことだろう。部員の言葉は聞かれていなかったに違いない。 「私は気にしていません。ですが、部の全体に迷惑がかかることだと思うので、よろしくお願いします。では」 「あっ、古塚さ──」 「すみません、用事があって。失礼します」  まだ何か話そうとする二俣の言葉を遮るように背を向けると、美月は早足で更衣室へと向かった。少し気に障る対応だったかもしれないと思ったが、早く弓道着から制服に着替えてこの嫌な気分を払拭したかった。  春休みに入ってすぐの練習日だった。もちろん授業はないので午前中の練習が終われば、そのまま真っ直ぐに家に帰ることができる。  更衣室のドアを開けると、すでに先客が3人いて着替えながら話に花を咲かせていた。3年と2年の美月の先輩だ。 「お疲れ様です」  挨拶をするも返事はかえってこない。仕方なく美月は頭を下げて自分のロッカーを開けた。  昔からあまり人付き合いのよくない美月は、こういう対応にも慣れていた。他の部員のように気軽におしゃべりをすることも、部活動のあとどこかへ遊びに行くことも、SNSでやり取りするなんてこともなかった。  それでも中学生のときから弓道を続けているのは、別に特段弓道が好きだからではない。いざというとき自分の身を守れるよう運動神経を鍛えておく必要があったからだ。それは自分の思いというよりは、自身の「兄」からの希望だった。  弓道着から制服へと着替えを済ませると、美月は結っていた赤いヘアゴムをほどいた。一度も染めたことのない黒髪が背中まで流れる。小さめのグレーのポーチからくしを取り出すと、ロッカーに付属している小さな鏡で乱れた髪をすく。  美月は急に更衣室が静かになったことに気づいて、手を止めた。なんとなく重い空気が肩にのしかかり、「ああ、これは……」と心を固める。 「古塚さんさ」 「……はい」  左手で髪の毛を触ったまま、3年生の加護(かご)先輩の方へ顔を向けた。半笑いの表情から何が言われるのかはだいたい予想がつく。 「今日も男子、いっぱい来てたよね」 「……はい」 「そうやって、迷惑だって顔してるけどさ、本当は内心喜んでるんじゃない?」 「……」  返事はしない。こういうときは何を言っても悪い方にしか受け取られないことを何度も美月は学んでいた。  少し緩いパーマをかけた加護の隣の2人は、腕を組んでわざとらしくため息を吐いた。 「清楚なふりして、本当はあいつらとヤってんじゃないの? あんたのせいでみんな迷惑してるのわかってる? お嬢様気取りかなんか知らないけど、あんま調子に乗ってんじゃねぇーよ」 (……うるさい)  「調子に乗るな」「迷惑なんだよ」「気取ってる」──幼い頃から飽きるほど言われてきた言葉だ。昔はムキになったり、怒ったり、泣いてしまったこともあったが、美月はもう諦めていた。  どうしたって、変わらない。何をしても変わらない。だから美月は何も言わず深く頭を下げると、荷物を持ってすぐに更衣室から出ていった。 「だいじょーぶ? みーちゃん、顔、怖いよ?」  外に出た途端に後ろから話し掛けられて、美月は目を丸くした。  
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