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 昼下がり。会議室からいつもはない香りが溢れていた。それは珈琲の香りだった。  山岡は、技術者としてこの会社に籍を置いている。その香りは彼の疲れた重い足を必死に引きずらせた。四十を超えてからの彼は、常に疲労感を抱えていた。ボサボサ頭にくたびれたスーツ、下がりがちのべっ甲の眼鏡も彼の重りになっているかのようだった。  その疲れを解すものの一つが珈琲だった。  珈琲の香りの源である会議室の中では、一人の青年が静かに珈琲と向き合っていた。彼は近くのカフェのベテラン店員だった。今回この会社からの依頼で出店するに当たり、オーナーから全てを任されていた。均整のとれた長い手足に線の細さを強調するかのような柔らかい黒髪が、端正な顔を飾り立てていた。  山岡は会議室の開け放たれた入口から、そっと中を覗いた。 「いらっしゃいませ」  青年のやわらかな、けれど低く響く声が山岡を迎えた。 「あ、どうも。これは……何かな? 珈琲買える?」  ボサボサ頭に手をやりながら、山岡が遠慮がちに聞いた。 「はい。もちろんです。近所のカフェからの出張です。こちらの会社の福利厚生のひとつとして出店させて頂いています」  青年は柔らかい笑顔で答えた。 「そうでしたか。わたし、この香りに捕まりましてね」 「ありがとうございます。ご注文は?」 「ブレンドを」 「テイクアウトにしますか? それともこちらで召しあがりますか?」 「では、ここで」 「かしこまりました。少々お待ちください」  青年の手元が確実に手早く動く。挽かれた豆を計り、ペーパーフィルターのセットされたドリッパーに移す。電気コンロにかけられていたケトルから慎重に湯を回し入れると、珈琲の優しい香りが新たに立ち上がった。  山岡の鼻がつられて動く。青年はそれに気付いて小さく微笑んだ。  時間をたっぷりかけて、彼は最期の湯をドリッパーに降らせた。大きめのマグカップには光り輝くような濃褐色が揺れていた。 「お待たせしました」  青年が差し出したマグを、山岡は受け取った。さっそく口をつける。 「あ、おいしい……です」  山岡はマグの珈琲に目をやりながらつぶやいた。それを聞いた青年の顔が、本当に、花が開くように微笑んだ。彼は照れるようにうつむいて言った。 「ありがとうございます」  山岡の視線が、少し傾けられた青年の顔に移動した。  そのとき気付いてしまった。青年の襟元から覗く赤い跡に。目が釘付けになる。一瞬、さまざまな思いが頭の中を過った。しかし、山岡の脳内にはひとつの答えしか残らなかった。 (キスマーク……だよな?)  山岡はマグから口を離さず、視線だけで彼の動きを追った。正確には、首元の赤味を。襟元で見え隠れするそれは、そのときの山岡には理解しがたい何かを、簡単に生み出すくらいには衝撃的だった。  ふと山岡は、ジャケットの胸ポケットの中身を思い出した。昨日のことだ。山岡は書類で指を切った。そのときに渡されたそれ。今年入ったばかりの部下が差し出してくれたもの。それが、まだそこにあったのだ。彼女が「こんなのでごめんなさい」と言いながら山岡に渡したのは、桃色の絆創膏だった。 「色がね……」  つぶやきながら、山岡は胸ポケットに指を突っ込んだ。それに気付いた青年が顔を上げた。 「何かありましたでしょうか?」  ぽかんとした顔の青年に、山岡はそれを渡した。  桃色の、絆創膏。 「え?」  青年は絆創膏と山岡の顔の間で視線を何度も往復させながら、混乱と疑問がまじった表情を深めていった。 「えっと、これは?」  山岡は、バツが悪そうに鼻を掻きながら極力優しい声を心掛けて伝えた。 「これ、首……襟のとこ、貼っとくといいよ。絆創膏の色がね、アレだけど」  わりと目立つからさ、と山岡が照れくさそうに言うと、青年は顔を真っ赤に染めてうつむいた。絆創膏は素直に受け取る。 「あ……ありがとうございます」 「いえいえ。ごめんね」  青年は何も言わなかった。心当たりがあるのだろう。赤い顔で襟元を押さえたまま、山岡に背を向けたままだった。山岡が珈琲を飲み終わるまで。  山岡も青年から目をそらすと、黙ったまま珈琲を飲み干した。 「おいしかった。ごちそうさまでした。生き返ったよ」  山岡がマグを会議机に置くと、一呼吸を置いて、青年は小さな声で答えた。 「ありがとうございます」 「どうも」  山岡は振り返りざまに青年から見えない角度で微笑むと、満たされた気持ちで自分のデスクへと戻っていった。それを横目で見送った青年の顔の赤味は、なかなか引くことがなかった。
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