遥かなるニライカナイ

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 言葉を失った。「そんな」 「でね、ばあちゃんは思ったんだそうです。どうせ死ぬんなら、最後に海が見たい。星空が見たいって。だから一人こっそり、撃たれるのも覚悟して、ガマの外に抜け出したんですって」  外は夕暮れ時だった。十分ほど歩いて、少女は海の見える丘に辿り着いた。  エメラルドブルー。ひわ色。遥かに輝き色とりどりに光を散乱させる海が眼前にあった。夕日は徐々に海に落ちて、水面を朱色に染め、雲は紫にたなびき、空には早い星が出始めて、この世のものとも思えないような美しい光景だったそうだ。 「沖縄ではね、海の向こうにニライカナイっていう、天国があると言われているんですって。だからばあちゃんは、ああ、あんなに美しい場所なら。そうだ、みんなと一緒にニライカナイへ旅だつのも、悪くないんじゃないかって……そう思ったんだそうです」  すっかり暗くなった星空の下を、少女はガマへ走った。天国に向かうために。 「するとね、ガマの外で、ひいばあちゃんが、ばあちゃんの弟の首を絞めていたんですって」 「ええっ?」  耳を疑った。「自分の子供じゃないんですか? ひどすぎる」 「その頃の感覚は僕にはわからないんですけど、親が子に引導をわたすケースが少なくなかったそうなんです。敵に殺されるよりは、と。でね、動かなくなった弟の身体を、優しく、ガマの外の草むらのなかにひいばあちゃんは置いてね。布をかけて、自分は中へ戻っていった」  死のう、と半時前まで思っていたはずなのに、その気持ちは少女の内からすっかり消え失せていた。死にたくない。生きていたい。戻りたくない。怖い。あまりの恐怖で立ち尽くしていた少女の目の前で、爆発が起こった。――ガマの中で、手榴弾を爆発させたのだ。  おかあさーん、おかあさーん、と少女は泣きながらガマの中を火傷もいとわず探し歩いたが、中にあったのは肉体の欠片と黒焦げの塊だけで、生きている人間は一人もいなかった。茫然と死んだようにガマの前で座り込んでいるところを、アメリカ軍に保護された、という。 「ばあちゃんはね、ずいぶん昔、ひどく酔っぱらった時にね、この話を母にしたんですって。そのトラウマが辛くて、沖縄とは縁を切った、って」  長い話を、青年はそうやって締めくくった。  いつのまにか目に涙が滲んでいた。嗚咽をかみ殺すように唾を飲みこんだ時、ふと気づく。「あれ? でも……今日はお墓参りに来られたんですよね?」 「ええ」 「どうして」  青年は少しだけ寂しそうに、微笑んだ。   「生きていたんですよ。。首を絞められたけれど、死んでいなかった。八十年近く経ってね、偶然、居所を掴んだ弟さんが、うちに連絡をくれたんですよ」 「そんなことって……」 「僕が想像するにね、ひいばあちゃんはきっと、弟さんを守りたかったんじゃないかな。でも、みんなの手前、一人だけ逃がすこともできなかった。だから、殺すふりをして、ガマの中に帰ってこないよう、気絶するくらいまで首を絞めて、草むらに置いたんですよ。きっと」  もう、わたしは嗚咽を止めることができなかった。涙があとからあとからあふれて、頬を伝った。彼氏と別れても、涙なんて出なかったのに。八十年も前の悲しいさよならに、心が締め付けられて、苦しくて、たまらなかった。 「ああ、ごめんなさい、こんな話をして、泣かせちゃって……」  青年がおろおろと言う。不意に、左手をぎゅっと掴まれた。 「いっぺーにふぇーでーびる(ありがとう)」  八十年前の少女が、老婆が、わたしの手を握りしめ、糸みたいに細い目を、もっと細くして微笑む。わたしは彼女のために、泣き顔を精一杯微笑む形に整えた。 「僕も初対面なんですけど、ばあちゃんの弟さんと待ち合わせて、今からお墓に向かうんです。ああ……車が来たみたいだ」  青年がドアの向こうを指さす。 「沖縄にはさよなら、って言葉がないんだそうです。グソー(あの世)で再会できるからって」  かっこつけるようですが、と彼は微笑んだ。  またね、と車椅子を押して去っていく彼の後ろ姿に、またね、と精一杯の声で返しながら、わたしは背が見えなくなるまで手を振っていた。 了
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