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僕の妻は素晴らしい。料理の腕は抜群だ。毎日家の隅々まで丁寧に掃除をしてくれる。手伝おうとしても、私がやった方が早いから、なんて言っていつも引き受けてくれる。実際、僕は鈍臭いから妻の倍以上時間がかかる。料理は美味しく作れない。掃除をすると戸棚の物を落としたりテーブルの上に置いてあるコップを引っ繰り返したりと片付けたいのか散らかしたいのかわからなくなる。そして、お互いに働いているけれど妻の稼ぎは僕より多い。去年、妻は管理職に就いた。一方の僕は成果をあげた試しも無いので平社員のままだ。違う会社で働いているから一概に比較は出来ないけれど、社会的に見ても妻は僕より余程優秀な人間で間違いない。そしてこれは若干残念なのだけれど、子供も妻に懐いている。娘が二人。長女は三歳、次女は一歳。勿論、二人から拒絶されたわけではない。ただ、妻と一緒にいる時の方が二人ともよく笑う。
「気のせいよ。それに貴方は父親だから甘え方が違うのかも」
そう慰められて、僕の面倒まで見させてごめん、と謝った。
「気にしないで。私は貴方が大好きなのだから。ほら、笑って笑って」
同じ台詞を結婚前も、結婚してからも言われた。結婚しようとプロポーズをしたのは妻だった。
「僕みたいな鈍臭くて不器用な人に君は勿体無いよ」
「事実だから否定はしないわ。でも、気にしないで。私は貴方が大好きなの。だから結婚しましょう。一緒になって、貴方の全てを見たいのよ」
結婚してから、共働きなのに家事全般を引き受けてくれる妻に対して最初は流石に気が引けた。だからもっと僕に任せてと主張した時も。
「気にしないで。私は貴方が大好きなの。だから楽をしてほしいの。ゆっくり座って、好きなことをしていて。緩み切った表情も可愛いから」
どうしてそんなに僕を好きなのか。答えはシンプルだった。
「駄目な子ほど可愛いと言うでしょう。甘やかしたくなる性分なのよ。気を悪くした? でも事実よね。ふふ、怒った顔も素敵よ」
違いない、と頷いた。自分がポンコツである自覚はある。何より妻がそう評したのなら僕は駄目人間で間違いない。
ある休日。目を覚ますと妻も二人の娘もいなかった。時計を見ると午前九時。散歩にでも出掛けたのかな。普段は起こしてくれるのに。それともよっぽどよく寝ていたから起こすのも忍びないと思われたのかも。深く考えず、のんびりとパジャマを着替えた。洗濯機に放り込む。洗濯物が溜まっていた。洗おうかな。そう過ぎったけれど、妻の了解を得てからの方が良いと思い直し放置した。どうせ僕が洗えば、色柄物を分けなきゃならなかっただのネットが必要だったのとまた失敗するに決まっている。妻がいない時に手を出してはいけない。結婚して八年。よく身に染みている。
正午になった。三人はまだ帰って来ない。散歩かい、と妻の携帯にメッセージを送ろうかとも考えた。でも送る必要は無いか、と思い直した。何かあれば彼女から連絡を寄越すだろう。そして僕がいなくては困る事態など無い。彼女がいれば何事も何とでもなる。
適当に昼食を済ませ、ぼんやりとテレビを眺める。面白くもない情報番組が延々流れていた。飽きたし僕も散歩へ行こうか。そう考えた時、玄関の扉が開く音がした。迎えに行くとそこには妻が立っていた。
「おかえり。あれ、麻衣と香帆は?」
娘二人の姿が見当たらない。実家よ、と妻は表情を変えずに答えた。そのまま洗面所へ手を洗いに向かう。彼女の実家は車で片道一時間のところにある。どうして実家に預けたのかな。そんな話は一言もしていない。まあ必要があったのだろう。きっとこれから説明してくれるに違いない。
リビングに戻る。アイスコーヒーをコップに注いだ。このくらいなら僕にも出来る。食器洗浄機の使い方は知らないけれど。妻がダイニングテーブルの椅子に腰掛けるのが目に入った。君も飲むかい、と声を掛ける。
「ありがとう。お願い」
妻のコップに氷とアイスコーヒーを注いだ。どうぞ、と目の前に置く。妻は一口飲んだ。僕は正面に腰掛ける。
「お昼は食べた? 僕は一人だったから、卵ご飯で済ませちゃった」
妻は返事をしなかった。彼女はリモコンへ手を伸ばし、テレビの電源を落とした。家の中に静寂が訪れる。コップの中で氷の転がる音が響いた。
「久志、話があるの」
僅かに笑みを浮かべた妻が、唐突に切り出した。なんだい、と呑気に応じる。アイスコーヒーを啜る僕の前に、妻は鞄から取り出した書類を見せた。
離婚届。
コーヒーを吹き出す。見越していたのか妻はしっかりと書類を庇っていた。慌ててティッシュでテーブルと自分の口周りを拭う。その間、妻は薄い微笑を浮かべ続けていた。
「何、ちょっと、どうして。急に、え? 離婚届?」
動揺する僕に、そう、と落ち着いて答えた。こちらは更に取り乱すばかり。
「だって、そんな、何も無かったじゃないか。穏やかな日常。平穏な家庭。僕らの間に喧嘩も無い。言い争いはおろか僅かな不満をぶつけた試しも無い。そりゃあ、僕は決していい夫でもいい父親でもなかったけれど、君はそれでいいと言ってくれた」
「言われなければわからないの?」
その言葉に固まる。妻の微笑がとても怖くなる。
「そのままでいいの。私は貴方が好きだから。そんな言葉を頭からお尻まで信じ込んで、可愛いわね。そういうところ、大好きよ。でもね、怠惰は身を滅ぼすの。成長をやめた者は人間じゃない。人間じゃないものと家族でいるのはとてもとても難しいの。だからね、さようなら。久志」
息が荒くなる。心臓が痛いほど鼓動が高鳴っていた。待って、とかろうじて絞り出す。
「ごめん。僕が悪い。君の言い分が全面的に正しい。わかった、これから改善するよう努力する。家事も覚える。断られてもやり通すくらいの気持ちを持つ。今、こうして指摘してくれたわけだから、おかげで僕にも理解出来た。だから、頼む。娘達のためにも、別れるなんて言わないでくれ」
テーブルに両手を付き、頭を擦り付ける。後頭部に妻の視線を感じた。無言の時間。彼女の返答をただただ待つ。やがて、駄目よ、と声が聞こえた。顔を上げる。僕を見詰める妻は、顔を赤くしてまだ笑っていた。どうしてこの場面で笑顔を浮かべられるのか、彼女の感情が理解出来ない。
「もう遅いの。手遅れなの。私の気持ちは貴方から離れている。でもそうね、一晩あげる。決心をして。そして、明日には離婚届に判を押してね。私は今晩、娘達と実家に泊まる。安心して、両親にはまだ何も話していないから。じゃあね」
そうして妻はリビングを出て行った。追い掛けることも出来ず、置き去りにされた僕は呆然と立ち尽くすばかりだった。
ふと気が付くと日が暮れていた。時計を見る。午後六時。妻が出て行ってから四時間近く経っていた。今日、何度考えたかもわからないことへ再び思考が囚われる。離婚。別れる。家庭崩壊。一人。いない。いなくなる。妻も娘も、いなくなる。
怠惰。努力の放棄。僕が悪い。全部全部、僕が悪い。
いいや。妻だって何も言わなかった。一人で抱えて突然爆発するなんてずるい。卑怯だ。
ううん、そこまで追い詰めた僕が悪い。彼女が間違うわけ、ない。
養育費ってどうなるのだろう。いくら取られるのかな。
それにこの家は僕の名義だけれど、一人で住むには広すぎる。妻と娘に明け渡すのか。じゃあ僕は何処で暮らそう。一人暮らしなんてしたこと無いぞ。だけど実家に帰るのも間抜けだし、どうしよう。
離婚にあたって弁護士とかも必要なんだっけ。調べたらすぐに雇えるのかな。考えたことも無いから何もわからない。税金とかの手続きも妻に任せていたからこういう異常事態にどう行動すれば良いのかさっぱり見当がつかない。
会社での評判はますます下がるだろうな。仕事も出来ず、家庭も壊れた甲斐性無し。どうせ出世の見込みなんて無かったけれどますます居た堪れなくなるな。
娘達には会わせて貰えるのかな。彼女達の人生に良くない影響を与える。そうだよ、やっぱり離婚なんて駄目だ。子供のためを思わなきゃ。
でも娘達にとっても僕はいい父親ではないだろうな。反面教師にしかなれない。僕なんていない方がよっぽど健全に過ごすのではないか。
今更一人で生きていけなんて酷すぎる。改心すると言っても許して貰えないなんて、裏を返せばそれほどまでに僕は何も出来ないのだ。これからどうやって生活すればいい。
そうだ、僕は駄目なんだ。駄目すぎるから捨てられる。その上で一人生きていくなんてどう考えても不可能だ。あはは、もう滅びしか残っていないや。
妻がいなければ生きていけない。彼女がいてくれたから僕は今日まで生きてこられた。
妻が。彼女が。傍にいてくれれば。僕は生きていけるのに。
翌日の朝九時。妻は一人で帰って来た。お帰りなさい、と掠れた声を掛ける。妻は昨日と同じように手を洗って、昨日と同じようにリビングの椅子へ腰掛けた。昨日とは違いアイスコーヒーは用意せず、僕は正面に座った。妻は何も言わない。僕は膝の上で拳を握り締めていたけれど、ごめんなさい、と叫んだ。
「君を怒らせてごめんなさい。何もしなくてごめんなさい。駄目な夫でごめんなさい。役立たずの家族でごめんなさい。努力します。頑張ります。改心します。だから、別れるなんて言わないで下さい。もう一度、家族としてやり直させてください。お願いします。香奈さん」
立ち上がり、頭を下げる。精一杯の気持ちを伝えた。お願いだ、考え直してくれ。そう祈っていると、両頬に手を添えられた。いつの間にか彼女がすぐ傍に立っていた。ゆっくりと顔を持ち上げられる。香奈は真っ直ぐに僕の目を見詰めた。値踏みされている気分になる。程無くして手が離れた。
「いいわよ。離婚、しない」
あっさりと香奈は応じた。こちらは大きく息を吐く。良かった。ありがとう。胸を押さえてそう伝える。
「だって、最初から離婚なんてする気は無いもの」
「え?」
思わず聞き返す。
「だから、最初から貴方と離婚をする気なんて一つも無かったもの」
香奈は座り直し、平然と言い放った。だったら何で、と言いかけすぐに思い至る。
「そうか。僕に反省をさせたのか。このくらい追い詰めなければ僕は理解しない、と。そういうわけだね?」
それはやや釈然としないけれど、こんなにも自分の駄目さ加減を自覚し、また家族のことを考えたのは初めてだ。香奈の思惑は正しかったと言わざるを得ない。しかし妻は、違うわ、と言い切った。いよいよわけがわからない。
「じゃあどうして」
戸惑う僕に笑みを向けた。背筋が寒くなる。
「貴方の表情が見たかったの」
奥歯が震える。噛み締めて堪え、どういうこと、と問い掛けた。
「離婚を告げられた瞬間の戸惑い。理由を伝えられている間の焦りと気まずさ。一人になってから一晩中ころころと浮かべていた焦燥。迷い。怒り。悲しみ。そしてさっきの必死な顔。今まさに浮かべている、困惑と恐怖。全部、全部初めて見る顔ね。私の目論見通りだわ。ありがとう、貴方。やっぱり素敵で可愛いわ」
目を見開く。一晩中だと。彼女はいなかった。それなのにまるで見ていたかのように話せるのは。
部屋中を見渡す。戸棚の物を引きずり出す。本棚の本を投げ捨てる。テレビの裏側やソファの下を覗き込む。
「何処だ。何処から見ていた」
妻は答えない。カメラも出て来ない。それなのに、何故彼女は僕の表情がわかった。
何なんだ、と絶叫する。対照的に、妻は落ち着き払っていた。
「結婚する時に言ったでしょう。貴方の全てが見たいって。まだ見ていない表情があった。だから私は今回の騒動を起こした」
腰が抜ける。怒りよりも最早恐怖が勝っていた。狂っている、とかろうじて絞り出す。
「仕方ないわ。貴方の表情、素敵なんですもの。感情がそのまま現れるなんてとても貴重なのよ。素直な人にしか出来ないの。おかげで私の言葉を一から十まで信じてくれたわね。ありがとう。貴方の表情を全て見るまで、これからもいくらでも手を尽くすわ」
「君はおかしい。今すぐ、病院へ行くべきだ」
「確かに、私には優秀な精神科医と強烈なお薬が必要かも。でも貴方がいる限り、私にそんなものは必要ないわ。だって貴方の浮かべる表情が私にとって一番のお薬ですもの」
「医者と薬が必要かどうかは君が決めることじゃない。今すぐ病院へ連れて行く」
「連れて行かれたら、きっと私は貴方と隔離されるわね。でもそうなったら困るのは貴方よ。私無しで生きていけないと気付いたのでしょう?」
「……何故、わかる」
「貴方の考えくらいお見通しよ。貴方の全ては私の手の上。どう考えるか。どう行動するか。全部把握している。だから貴方にカメラは見付けられない。そして貴方は私に依存しきっている。一人じゃ何も出来ない。生きてなんていけない。故に離婚を切り出しても、絶対に受け入れないとわかっていた。貴方が私のお薬であると同時に、私は貴方のお薬よ。痛みを負ったら全部癒してあげる。いくらでも生きながらえさせてあげるわ。残念ながら依存性は強いけど。それとも本当に私を捨てる? きっと三日も保たないわ」
呆然と妻を見上げる。その表情も初めてね、と微笑んで、彼女は僕の唇を塞いだ。僕はされるがままに身を任せた。
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