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「あっ」 ぱっと動くも、 遅すぎることは経験から知っている。 それでも窓にとりついて、 やっぱりな結果に私はふぅと息を吐いた。 見えたのは木々茂るお隣の庭。それだけ。 早くも夏をはらむ陽気とは裏腹に、 春の瑞々しさを残した緑からそっと眼を外す。 ベッドの上、 膝のそばには結び目の形の紙片がある。 正確には紙片でなく、手紙だ。 細長い折り目を慎重にほぐせば、 現れる文言は二つだけ。 『喋りすぎないで』。 そして『近づけないで』。 「そんなに心配かなぁ…」 独り言に、見えない送り主への不満が滲む。 短すぎる文体だけれど、なんとなく意味はわかる。 何せ、これが届き始めたのは3月頃からなのだ。 ──汐美明良と名乗ったあの人へ、 毎日メールを打つようになった頃。  共通の知人がいるといえ、 ただ一度会っただけの人に何を話せばいいのかな、 と迷ったのは最初だけで。 簡潔な返信がなんだか心地良く、 気がついたらあれもこれもと綴っていた。 どれだけ送っても返ってくるのは二言三言で、 からかいまじりに皮肉を言われた初対面との落差が面白かった。 そうしてますます筆がのる毎日に、 時折放られるのがこの手紙だ。 誰からなのかは、大した問題じゃなかった。 筆文字で達筆というだけで充分だ。 それに私だって、 何もかも話せないことくらい心得ている。
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