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ハイボールを袋に戻し、深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「この辺の方ですか」俺は訊いた。
「いいえ」
「そうですか。いくらこの辺りが高級住宅街だと言っても、こんな時間に女性が一人でいるのは危ないですよ」
女は何も言わなかった。
「余計なことだと思うんですけど、ちょっと心配なんで」俺は声のトーンを落とし、はやる気持ちをおさえた。
「もう帰りますから」女が言った。
「このあたりの道は分かりづらいし、駅まで送りますよ。夜遅いし」
今どき道案内もないだろう。無理があるのは分かっている。だがこの女をこのまま帰したくなかった。
「いえ、道は知ってます」
ということは何度か来たことがあるのか。
「ここらに友達がいるんですか?」
女の指に力が入るのを俺は見過ごさなかった。
「そんなところです」
ふうん、男だろう? 今日、その男とどんな話をしたのか当ててみようか?
「へえ、女子会って感じですか」俺は努めて明るく言った。
「そうですね」
そう言って女は俺と反対側に目線を投げた。俺は心の中で舌打ちをした。
そのとき、むこうを向いた女のうなじを汗が伝った。その雫に、俺は思わず生唾を飲んだ。
「こんな時間だし、友達のところに泊まったらいいんじゃないですか?」
俺は粘った。女の汗が、俺の中で膨張し続けるものにガソリンを撒いた。
この女が欲しい。
「そうもいかないので」女は視線をそのままにして答えた。
「そうですか。ならタクシー呼んであげましょうか」
返事はない。
「それと、タクシー代は俺に払わせてください。これも何かの縁だし、あなた美人だし。正直、めちゃくちゃタイプなんですよ。だから力になりたくて。金はあるんで気にしないで下さい」
多少の社交辞令も含まれているが、特に嘘はない。
「ぜひそうしましょう。別に俺、怪しい者じゃないんで。だって、住んでるところも既にバレてるようなもんだし。何なら自己紹介もするし」
俺はまくしたてた。時間をかけてはいられない。
女が振り向いた。俺も思わず女を見た。小さめの目が俺を見上げている。暑さのせいか、頬にうっすら赤みがさしている。その上気したような顔がまた俺をかき立てた。
「あなたは近くに住んでるの?」
俺は通りの向こうにある自分のマンションを指さした。
「あれですよ」
そうだった、もっと早くあのマンションを見せてやればよかった。図らずもいい展開になってきた。やはりあの家を離れる訳にはいかない。
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