1.さまよう蝶

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 ハイボールを袋に戻し、深呼吸して気持ちを落ち着けた。 「この辺の方ですか」俺は訊いた。 「いいえ」 「そうですか。いくらこの辺りが高級住宅街だと言っても、こんな時間に女性が一人でいるのは危ないですよ」  女は何も言わなかった。 「余計なことだと思うんですけど、ちょっと心配なんで」俺は声のトーンを落とし、はやる気持ちをおさえた。 「もう帰りますから」女が言った。 「このあたりの道は分かりづらいし、駅まで送りますよ。夜遅いし」  今どき道案内もないだろう。無理があるのは分かっている。だがこの女をこのまま帰したくなかった。 「いえ、道は知ってます」  ということは何度か来たことがあるのか。 「ここらに友達がいるんですか?」  女の指に力が入るのを俺は見過ごさなかった。 「そんなところです」  ふうん、男だろう? 今日、その男とどんな話をしたのか当ててみようか?  「へえ、女子会って感じですか」俺は努めて明るく言った。 「そうですね」  そう言って女は俺と反対側に目線を投げた。俺は心の中で舌打ちをした。  そのとき、むこうを向いた女のうなじを汗が伝った。その雫に、俺は思わず生唾を飲んだ。 「こんな時間だし、友達のところに泊まったらいいんじゃないですか?」  俺は粘った。女の汗が、俺の中で膨張し続けるものにガソリンを撒いた。  この女が欲しい。 「そうもいかないので」女は視線をそのままにして答えた。 「そうですか。ならタクシー呼んであげましょうか」  返事はない。 「それと、タクシー代は俺に払わせてください。これも何かの縁だし、あなた美人だし。正直、めちゃくちゃタイプなんですよ。だから力になりたくて。金はあるんで気にしないで下さい」  多少の社交辞令も含まれているが、特に嘘はない。 「ぜひそうしましょう。別に俺、怪しい者じゃないんで。だって、住んでるところも既にバレてるようなもんだし。何なら自己紹介もするし」  俺はまくしたてた。時間をかけてはいられない。  女が振り向いた。俺も思わず女を見た。小さめの目が俺を見上げている。暑さのせいか、頬にうっすら赤みがさしている。その上気したような顔がまた俺をかき立てた。 「あなたは近くに住んでるの?」  俺は通りの向こうにある自分のマンションを指さした。 「あれですよ」  そうだった、もっと早くあのマンションを見せてやればよかった。図らずもいい展開になってきた。やはりあの家を離れる訳にはいかない。
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