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監査は予定より早く行われた。例の担当者から電話があり、ペーパーカンパニーの存在が疑われているようだとまくし立ててきた。この担当者も共犯者であり、あの男に騙された一人だ。担当者はひどく取り乱していて、どうしたらいいかと聞いてきた。しかし私に答えなんてあるはずがない。
もはや時間の問題だった。
今ならまだいるかもしれない。そんなことあるはずがないと思いつつも、私は男のマンションに向かった。それより他に私にできることなどあっただろうか。
電車に揺られながら色々なことを思い出していた。やがてその全てがあの男への憎悪に変わった。あいつのおかげで私は娘を失うのだ。いやそれだけではない、大切な娘の人生すら狂わせてしまった。重過ぎる罪だ。単なる横領では済まされない。あいつに償わせる方法は一つしかない。どんな犠牲を払ってでもこの手で償いをさせる。私は刑務所に行くだろうが、あいつが行くところはそこではない。
そう決めた私は一つ前の駅で電車を降りた。エアコンの効いた車内を出たとたん、湿り気を帯びた熱風が吹きつけてきた。一気に汗が流れ出す。額を拭おうとした私は、そこで自分が手ぶらであることに気が付いた。頭が混乱したままスマホ一つだけ持ってここまでやってきたのだった。
私は駅を出ると、目についた大型スーパーに向かった。そこで柳刃包丁と丸物の魚、それに簡素なトートバッグを買った。魚の方は店を出てすぐに捨てた。
時計は午後六時を指していた。男の部屋へ行くのは暗くなってからにしよう。
私は通りにあるカフェに入った。
気温が下がる気配は全くない。
気づくと閉店の音楽が聞こえてきた。午後八時。私は店を出ると徒歩で男のマンションに向かった。
歩きながらたくさん考えた。冷静になろうと努めた。しかしどれだけ考えても頭が冷えることはなく、憎悪が薄まることもなかった。
私は肩にかけたバッグに手を入れ、指先で先ほど買った包丁の感触を確かめた。
長いこと歩いた。駅一つ分だったが、この暑さの中では何倍もの距離に感じられた。急な坂を登りきった時には、シャツが背中にべったりと張り付いていた。おそらく顔もひどいことになっているだろう。私は汗を拭うことも忘れ、ひたすら歩いた。この道は何度も通ったことがある。男に呼ばれるまま幾度となくここを歩いた。
マンションの前に来ると、運よく住人がエントランスをくぐろうとしていた。私は足音を忍ばせながら、気づかれぬよう距離をおいて後に続いた。
階段を登りながらもう一度バッグの中に手を入れ、今度はそれをしっかりと握ってみた。これが私の魂を救ってくれる。
予想はしていたが何度チャイムを鳴らしても反応はなかった。電気メーターも動いていない。すべては男の計画通り。ここにいるわけなどないのだ。
私はマンションを出た。もう終わりだ。何一つ手はない。暑さも、汗も、この後のことも、もう何も考えられなかった。唯一、耐え難い疲労だけを感じていた。通りには人っ子一人いない。車の音も町のざわめきもない。私はあてどもなく歩いた。他人が見たら夢遊病か何かに見えただろう。
しばらくすると公園が見えた。今にも膝が折れそうだった私は、吸い寄せられるように公園に入るとベンチに腰をおろした。
娘の顔が浮かんだ。
あの子は大丈夫だろうか。両親が面倒を見てくれるだろうが、結局、私はあの子に何一つしてやれなかった。それどころか、この先私のせいで後ろ指をさされながら生きていくのだろう。私のせいで進学を諦めたりするのだろうか。就職や結婚も。
せめて、いくらかのお金でも残してあげたかった。
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