一章:お姉ちゃんはミル・マスカラス

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「それよりも先生、ミノルの病気は治るんですか」  普段は優しいお父さんが、声を荒げて先生につめよっている。 「…………申し訳ないです。正直わかりません」 「わかりませんって、そんな無責任な」 「いいですかお父さん。お母さんも落ち着いて聞いてください」  キャスターがついた椅子をくるりと回転させて、先生はぼくたちの方をまっすぐに見る。 「この病気はですね。頭の中にある“顔を認識する神経”が、うまく働いてないことが原因なんです」 「ということは?」 「つまり、人の顔を覚えることが難しいんです。お父さんも経験したことありませんか。なんとなく印象が薄い人の顔が、なかなか覚えられないってこと」  お父さんが黙ってうなずく。お母さんはカバンから真っ白なハンカチを取り出して、目のあたりをおさえていた。 「ミノルくんの場合、その状態が普段からずっと、誰に対しても続いているのです。相手の顔がぼんやりとしか見えていないから、次会ったときに誰だかわからない、というわけです」  ちんぷんかんぷんだ。お父さんは理解してるかな。そう思って見上げると、買ったばかりのノートに何かを書きこんでいる。先生の言うことを一文字でも逃してはいけない、といった感じで、ものすごい勢いでペンを走らせていた。 「ミノルくんの場合は後天性……つまり交通事故が原因なので、生まれつきのような先天性のモノではありません。だから回復の見込みも充分にあるんです」  そこまで話すと、先生は「もちろんお約束はできませんが」と小さな息を一つ吐いた。 「とにかく見守りましょう。今はそれだけです」  大人たちがむずかしい話をしているあいだ、ぼくとお姉ちゃんは、おたがいの口にお菓子をひたすら放りこんであそんでいた。カラフルな都会のお菓子はとても甘くて、歯がとけてしまいそうだ。アメだかガムだかグミだかよくわからなかったけど、もちゃもちゃとかんでいたら、なんだかゆかいな気持ちになってきた。  漢字で「相貌失認」と書くことを知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。
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