第10話 王宮を包囲せよ

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第10話 王宮を包囲せよ

 ソンタムの容態は日に日に悪化していき、寝床から起き上がることさえも困難になっていた。もはや回復の望みはなかった。宮内長官のシーウォラウォンが日本人町の長政の自宅を訪ねてきたのは、王宮全体がその沈鬱な空気に包まれているときだった。 「宮内長官殿がわざわざお越しになるとは……」 「長政殿に早急に相談しておきたいことがありまして」  長政は板の間にあぐらをかくシーウォラウォンに緑茶を差し出し、向かい合って座る。シーウォラウォンは面長でつり上がった目をしており、どことなく蛇のような冷たさを感じさせた。湯気の立つ緑茶にふうッと息を吹きかけて一口飲んでから話を切り出した。 「ご存知でしょうが、ソンタム王はもう長くありません。ですから、今のうちに王位継承のことについて話しておきたかったのです。ソンタム王は王位を長男のジェッタ殿に譲ろうとお考えです」 「ええ、存じています」 「私は王の意向に沿うようにしたいのですが、この国では王位は弟が継ぐのがならわしになっています。総務長官のカラホム殿はそれに則り、王弟のシーシンを王位に就かせるためにすでに動きはじめています。長政殿はこれについてどのようにお考えですか」 「私もシーウォラウォン殿と同じです。王位継承は国のならわしよりも王の意向を尊重すべきであると考えています」 「それならば、長政殿にもぜひ協力していただきたい」 「私にできることならば」 「王宮内に日本人義勇軍を集めていただけませんか」 「武力行使というわけですか。自国の兵同士で血を流すようなことは……」 「いえ、そんなことはしません。長政殿はただ兵を集めるだけでいいのです。そのあとは私に任せてください。日本人義勇軍には一滴の血も流させないと約束します」  シーウォラウォンはそう言って細い唇の端を少し上げて微笑を浮かべた。  その三日後、長政率いる約六百人の日本人義勇軍と約四千人のシャム兵が王宮の敷地内に招き入れられた。また、ソンタムに回復の見込みはなかったにも関わらず、王の健康が回復してから春季行軍を行うという名目で城下町には約一万人のシャム兵が配置されていた。  日本人義勇軍は城下町までは足を踏み入れたことがあっても王宮を間近に目にするのははじめてという者がほとんどだった。任務の最中ではあったが、朱色や金色に彩られたその煌びやか建造物にまるで観光旅行者のように目を奪われていた。  長政は木陰の石に腰かけていた。シーウォラウォンの思惑はまるでわからず、彼の伝令が来るまでただ待機するしかなかった。 「長政。ちょっといいか」  そこに左京がやってきた。腰に大小二本の刀を差し、背中には長弓を担いで完全武装している。 「俺はシーウォラウォンという男に会ったことはないが、信用して大丈夫なのか」 「ソンタム王の最側近だからな」 「だからと言って信用できるわけではない」 「ああ、そうだが……。俺もシーウォラウォン殿も王位継承はソンタム王の望みどおりにしたいということで目的が一致している。そのために一時的に協力しているだけだ」 「くれぐれも利用されるなよ」 「わかってるさ」  それから数時間が経過し、太陽が西に傾きはじめたときだった。 「長政殿———ッ!」  馬に乗ったシャム兵が蹄の音を響かせながらやってきた。手綱を引いて長政の前で馬を止めると、馬はブルルンと小さくいななく。 「ソンタム王が……、ソンタム王が……」 「どうした?」 「さきほど息を引き取りました」 「……そうか」  おそらく今日明日が峠だろうと覚悟は決めていたが、心の動揺は抑えきれない。気持ちが少し落ち着いてから訊いた。 「で、俺たちはこれからどうすればいい。シーウォラウォン殿からの伝令は?」 「このままここで待機するようにと」 「なんだと……。いつまで待機すればいいんだ」 「次の伝令を待ってください」  ——いったいどういうつもりだ……?  王宮の本堂のあるほうに目を向けると、黄金色に彩られた三角屋根の淵だけがわずかに見える。そこにシーウォラウォンを含めた重臣たちが集まっているはずだった。それまで晴天だった空にはもくもくと暗雲が垂れ込めはじめていた。
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