9人が本棚に入れています
本棚に追加
第14話 マンコンの剣
「シーシン様でしたら一ヶ月ほど前に山田と名乗る日本人といっしょにここを出ていかれましたが……」
マンコンのかつての主君であるシーシンが僧として在籍していた寺を訪れると、ティンという少年僧がそう答えた。
「それ以降なにか音沙汰は?」
「ありません」
「そうか……」
寺をあとにすると、黒毛の馬に跨り、雑草の生い茂る荒野をゆっくり進んだ。
ジェッタが王位に就き、シーウォラウォンが王宮で実権を握るようになってから、マンコンはアユタヤを離れ、浪人としてシャム国内を放浪する生活を送るようになっていた。そんなときに耳にしたのがシーシンが王への反逆者として捕えられたという噂だった。処刑はされておらず、どこかに幽閉されているらしいのだが、それがどこなのかさっぱりわからない。シーシンを連れていったという長政を捕らえて問い詰めることができればいいのだが、今のアユタヤにはできる限り近づきたくなかった。
やがて東の空に夜の色が滲みはじめ、そこを一匹の蝙蝠がすッと横切っていく。赤土の地面にはマンコンと馬の影が長く伸びている。放浪生活を始めてから彼の髪とひげはだらしなく伸び放題になり、着ている質素な布の服も薄汚れていた。腰に差した、鞘にブルーサファイアの宝石が埋め込まれた剣以外、かつての王宮の貴族の面影は残っていなかった。
遠くの夕闇の中に明かりが見えた。マンコンはそれに吸い寄せられるようにして馬をその方向に走らせた。やがてニッパヤシの葉で葺いた屋根がぼんやりと見えてくる。木造家屋の建ち並ぶ小さな集落である。この日はここで宿をとることにした。
男たちの賑やかな声が聞こえてくる酒場があったので、その軒先に馬を繋ぎ止めて店内に入った。空いているテーブル席にどかりと腰を下ろし、蝋燭だけが仄かに灯る薄暗い店内の奥に向かって大声で言った。
「おい、酒をくれ!」
すると、少しして仏頂面の中年の女がラオカオと肴の豚の干し肉を彼のテーブルに運んでくる。マンコンは手酌でラオカオをちびちびと飲みながら硬い干し肉を奥歯でガジガジと噛んだ。
隣のテーブル席では腰に剣を差した五人の男たちがラオカオを飲み、下卑た笑い声をあげて騒いでいた。会話の内容はたわいないものだったが、その中にふいにシーシンの名前が交じった。もしかしたらなにか手がかりを掴めるかもしれないと思い、彼らの輪の中に入ってそれとなく探ってみることにした。
「随分と賑やかだな」
「ああ? なんだ、おまえは」
五人の男たちはマンコンに怪訝そうな顔を向ける。
「よければ俺も交ぜてもらえないか。ひとり酒というのはどうも味気なくてな」
彼らは顔を見合わせ、それから顎をしゃくって言った。
「いいぜ、入りな」
マンコンは自分のラオカオと干し肉をもってきて隅の席についた。すぐには彼らの会話には加わらず、様子見でおとなくしくしていた。すると、しばらくしてひとりの男が彼に話を振ってきた。
「おまえ、見ないツラだが、どこから来たんだ」
「アユタヤで衛兵を務めていたんだが、王が変わったときに解雇されてな」
マンコンは自分の素性を誤魔化して答えた。
「ということは、今は無職か」
「仕事がないのなら出家でもすればいい。坊主は食いっぱぐれがないからな。シーシンみたいに出家すりゃいいんだよ」
再び出てきたシーシンの名前に心がざわめく。が、それが表情に出ないよう平然を装って訊いた。
「シーシン……というのはソンタム王の弟の?」
「そうだ、そのシーシンだ。王位をジェッタに奪われてから出家してたらしいぜ」
「シーシンの出家は食いっぱぐれないためというより、処刑を免れるためのものだったらしいが、それも無駄な足掻きだったな」
「どういうことだ」
「王の補佐として王宮に戻ってきてほしいと騙されてな、そしてまんまと戻ってきたところを捕えられて幽閉されたというわけよ」
「騙された……のか。シーシンが捕まって幽閉されたというのは俺も噂には聞いていたが、どこに幽閉されているんだ」
「けっこう近いぜ。このペッブリーの……」
「おい! それ以上は……」
別の男が制するように声をあげる。が、彼は構わずに話を続けた。
「へッ、こんな薄汚い乞食みたいな野郎に教えたってなにも問題ありゃしねえよ。ここから西に行くと、ビルマとの国境を有する大きな森が広がっている。その入り口に湖があるんだが、その湖畔に穴を掘ってそこに幽閉してるんだ」
「本当か? なぜそんなことを知っている」
「知っているもなにも、その穴を掘ったのはこの俺たちだからよ。急に王宮の偉そうな連中がやってきて駆り出されてな」
「そうだったのか。しかし、シーシン擁立派だった大官たちは王への反逆者として次々と処刑されたと聞いている。それなのにどうしてシーシン自身は処刑を免れている」
「国民にあれだけ慕われていたソンタム王の弟を処刑したらさすがに国民からの反発は免れないだろ。まあ、最終的には殺すつもりらしいけどな。幽閉して与える食料を徐々に減らして餓死させるつもりらしい」
「シーシンはまだ生きているのか?」
「時間の問題だろうが、今のところはな」
「そうか……」
これを天の導きというのだろうか。何気なく立ち寄った酒場で酔っ払いからシーシンの安否を確認し、さらに幽閉されている場所まで聞き出すことができた。そのあまりの僥倖にこぼれそうになる笑みを噛み殺しながらラオカオをちびりと飲んだ。そのときだった。
「おまえ、なんか怪しいな」
ひとりの男が言った。
「どうしてシーシンのことについてそんなに知りたがる」
「俺もかつては王宮に仕えていた身だからな。気になるのは当然のことだろ」
「本当にそれだけか。おまえの顔、どうも見覚えがあるような気がするんだよなあ」
男はマンコンに舐めまわすような視線を向ける。
「おまえ……、もしかしてマンコンじゃないのか」
その言葉に他の男たちは一斉にざわめいた。
「マンコンって……シーシンの侍臣のあのマンコンか」
「この薄汚い格好をした奴が本当にマンコンだってのか」
マンコンは弁明する。
「おい、いったいなにを勘違いしてるんだ。さっきも話したとおり、俺はただの一兵卒に過ぎなかった男だ。マンコンのわけがないだろう」
「惚けるなよ。おまえが腰に差しているその剣はなんだ。ただの一兵卒がそんな上等な剣を持てるわけがねえだろ」
五人の男たちの視線がマンコンの剣に集まる。
「いや、これは盗んだもので……」
「嘘を吐くな!」
しばらくしてひとりずつ椅子から立ち上がり、彼を取り囲んでいった。
「本当にマンコンなのか」
「だとしたら、さっきの話を聞かれたのはかなりまずいぞ」
——めんどくせえな……。
マンコンはふうッとため息をついて覚悟を決めた。これ以上しらを切るのは無理だなと思った。
「そうだよ。俺はシーシン様の侍臣のマンコンだ。だったらどうする?」
「殺す!」
彼らは剣を構えてその切っ先をマンコンに向けた。店内の他の客たちはそのただならぬ空気を察して慌てて店から逃げ出していった。
しかし、そんな緊迫した状況でもマンコンはまだ悠長にラオカオを飲んでいた。しばらくしてその盃を空にしても、まだ誰ひとりとしてかかってこなかった。
「どうした。俺を殺すんだろ。さっさと来いよ」
「う……」
「来ないのならこっちから行くぜ」
マンコンは椅子からすッと立ち上がると、鞘から抜いた剣を真上に放り投げた。板張りの天井にドスッと突き刺さり、五人の視線がそこに集まる。
その瞬間、ゴスッという鈍い打撃音とともにひとりの男の顔面が陥没した。マンコンの拳が叩き込まれたのである。マンコンはそこを突破口にして床を素早く転がり、男たちの包囲から脱出した。
「貴様!」
男たちは剣を振り上げて向かってくる。マンコンは壁際に置かれていたテーブルを掴んで勢いよくブンと投げつけた。彼らの体はそれになぎ倒され、その上に乗っていた食器はすべて床に落ち、派手な音を立てて砕け散る。
マンコンはそのテーブルを踏み台にして高く跳躍し、天井に刺さっている自分の剣を抜きとった。そして落下。そこにひとりの男の剣が振り下ろされる。マンコンはそれをたやすく捌くが、そこから瞬きをする暇もないほどに他の男たちの剣も次々と襲いかかった。
キン、キンと刃のぶつかり合う音が響いた。マンコンの白い布の服が徐々に赤く染まっていく。彼自身の血ではなく、男たちからの返り血である。
しばらくしてマンコンの下ろした剣の先から血がポタリと垂れた。戦いのあとの静寂。床に倒れる男たちから流れ出る血は店内の床をじわじわと侵食していき、誰のものかわからない切断された片腕や剣をその赤色の中に飲み込んでいく。
「う、ううう……」
呻き声が聞こえた。マンコンが最初に顔面を殴った男である。壁際に腰を下ろし、虚ろな目で鼻血を流していた。
「まったくバカな連中だぜ」
マンコンはその男の前に立ち、剣の切っ先を心臓のある左胸に向けた。男がそれを両手で掴むと、そこから血があふれ出して彼の腕をすうッと伝い落ちていく。マンコンがぐいと力を入れると、その切っ先は男の左胸の奥深くまで入っていった。ぬるりと引き抜くのといっしょに男の体は前のめりに倒れた。
「俺の正体に気付かなければ死なずに済んだのになあ」
店内の隅では店の女がうずくまってブルブルと震えていた。
「迷惑をかけたな。これで勘弁してくれや」
マンコンは女にそう言うと、腰に下げた革袋から銀貨を一枚取り出して親指でピンと弾いた。それは床をコロコロと転がってからパタリと倒れる。その上の面に蝋燭の光が反射して鈍い輝きを見せた。
最初のコメントを投稿しよう!