第16話 三途の川

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第16話 三途の川

 シーシンは暗闇の中で微かに息をしていた。ムカデだろうか、何本もの足を持つ虫が彼の顔の上をうねうねと這っていくのを感じる。が、今の彼にはそれを振り払う体力も気力も残されていなかった。  ここに幽閉されてからもうどのくらいの日数が経ったろうか。昼と夜の区別もない空間にずっといるせいで時間の感覚はひどく曖昧になっていた。はじめの頃は警備兵から一日三食の食料と水を与えられていたので、それで一日の経過を知ることができた。が、その感覚は次第に延びていき、与えられる量も徐々に減らされていった。  永遠にも思えるほどの長い時間を暗闇にひとり閉じ込められ、嫌というほど自分の内面と向き合わされた。思い出すのは少年時代のこと。兄のソンタムには剣術から学問に至るまですべてにおいて敵わなかった。両親からの寵愛を受けていたのも兄ばかりで、兄の前では自分がまるで空気になったかのように思えた。  あるとき、何気なく短刀で丸太を削って仏像を彫ってみた。プロの職人が彫ったかのような見事なものができたので両親に見せた。褒めてもらえると思っていた。が、両親はそれを彼が彫ったものだと信じず、彼のことを嘘つき呼ばわりするのだった。  ——愛されたかった。認められたかった……。  これまでずっと心の奥底に押しやって見て見ぬ振りをしてきた感情。王弟として、そして僧侶として気丈に振る舞ってはいたが、その心の内側では少年時代に受けた傷が癒されることなく、ずっと血を流し続けていた。  兄の跡を継いで王位を継承し、王として兄以上の功績をあげればなにかが変わると思っていた。が、それも叶うことなく、王位は甥のジェッタに奪われた。挙げ句の果てには、兄が目をかけていた山田長政にまんまと騙されて捕まり、アユタヤから遠く離れた場所に幽閉される始末である。  自分の死を間際にして、ただひとつだけ気がかりなのは侍臣のマンコンのことだった。彼だけはシーシンのことを本当に慕ってくれていた。シャム史上もっとも偉大な王になれるとまで評してくれた。買い被りすぎだとは思った。が、その言葉にはどれだけ勇気づけられたことだろうか。しかし、王位継承の騒動でシーシン擁立派だった大官の多くは処刑されたと聞いている。おそらくマンコンももう……。  ——バカだな。私なんかについてこなければ……。  もう涙はとっくに枯れ果てたと思っていた。が、それでもマンコンのことを思うと目から涙が溢れ出して顔を濡らした。 「シーシン様……」  ふいにマンコンの呼ぶ声が聞こえた。いよいよ幻聴が聞こえるようになったらしい。それとも、お迎えが来たのだろうか……。 「シーシン様!」  今度はよりはっきりと聞こえた。温かな手の感触が肩に置かれ、それから顔に触れた。 「もしかしてマンコン……か?」 「はい!」 「迎えに来たのか?」 「はい、お迎えに参りました」 「……そうか。すまなかったな」 「行きましょう」  マンコンの背中に担がれて暗闇の中を移動した。やがて光が見えた。夜空に浮かぶ満月の光である。草の生い茂る地面に下ろされ、一着の布の服を渡された。 「これに着替えてください」 「なぜだ」 「この男にシーシン様の身代わりになってもらうのです」  マンコンの足元に全裸の男が横たわっていた。シーシンはわけもわからぬままとりあえず渡された服に着替えた。すると、マンコンは彼の脱いだ服を今度は全裸の男に着させる。 「ここでしばらくお待ちください。それからこれ。今、食料はこれだけしかありませんが、とりあえず……」  マンコンはそう言って腰に提げた革袋から黄色く熟したマンゴーを一個取り出し、シーシンに手渡す。そして、シーシンの着ていた泥まみれの服を着させた男を背中にひょいと担いで穴の中に戻っていった。  近くに一頭の馬が立っており、じっと身動きせずにシーシンのほうを真っ直ぐに見つめていた。その向こう側には水面が広がっている。満月がその眩い光を液状にして数滴落としたかのように、そのさざなみがきらきらと輝いている。あれが三途の川だろうか。  ——いや、ここは……。  手にもっていたマンゴーを鼻に近づけると、微かに甘い香りを感じる。がぶりと皮ごと齧り付いた。瑞々しい果肉から甘味が溢れ出して全身を蕩けさせる。自分の体にわずかながらに生命力が戻ってくるのを感じた。  しばらくしてマンコンが穴から戻ってきた。背中に担いでいた男はいなくなっていた。 「お待たせしました。では、行きましょう」  彼は馬の鞍に跨り、その後ろにシーシンを乗せる。馬は二人を乗せて颯爽と走り出した。馬のたてがみをなびかせてびゅんびゅんと流れていく風が心地よい。水面の煌めきはまるで彼らを追いかけてくるかのようにいつまでも視界の隅に映っている。 「マンコンよ。もしかして……私は生きているのか?」  シーシンのその質問にマンコンは鷹揚な笑い声をあげる。 「当たり前じゃないですか。もしかしてここがあの世だとでも?」 「そうか……。これからどうするつもりだ」 「しばらくは体をゆっくり休めましょう。それからシーシン様の名のもとに兵を集めて王宮を奪還するのです」  シーシンはそれになにも答えず、マンコンの背中に額を預けた。そこから仄かに彼の体温が伝わってくる。鼓膜には大地を力強く蹴る馬の蹄の音が響いていた。
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