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第18話 この戦いが終わったら…
長政は川面でうねうねと動く光を見つめながら思案に暮れていた。自分はいったいなんのために日本からシャムまで渡ってきたのか。侍として名を馳せるためである。が、今の自分はいったいなんだ……。
ふいに顔にパシャリと水がかけられ、それで我に返った。
「なに考えてるの」
ニウィが長政の顔を覗き込みながら訊いた。すぐ隣で洗濯をしていた彼女の存在を忘れてしまっていた。
「いや、別に……」
長政は川に釣り糸を垂らした竹竿を握りながら素っ気なく答えた。
「なにか悩んでるのなら話しなよ」
彼は少し迷ってからすべて打ち明けることにした。
「もうやめたくてな……」
「なにを?」
「王宮に仕えることをだ。ソンタム王の頃は王宮に仕えることを誇りに思っていた。しかし、ソンタム王が亡くなってからは醜い権力争いに巻き込まれて、ただいいように利用されるだけの存在になっちまってる気がしてな……」
「じゃあ、やめちゃいなよ」
「まったく、簡単に言ってくれるぜ」
王宮の貴族はもう辞任したかった。が、先代のソンタム王の恩に報いるためにこの国に貢献したいという気持ちもまだ残っていた。その二つの気持ちがせめぎ合っていた。
長政はふうッと深くため息をついて川面に視線を戻した。そこに垂れた釣り糸は相変わらずぴくりとも動かない。そこにじゃぶじゃぶとニウィの洗濯する音が響いた。
「ねえ、また日本の話を聞かせてよ」
しばらくしてニウィが言った。
「日本なあ。もう俺の話せる日本の話はほとんど話してしまったが……」
「まだ長崎の話は聞いてないよ」
「ああ、そうだったかな」
長政はシャムに渡るときに長崎の平戸港から朱印船に乗り込んでいた。
「どんな場所だったの」
「そうだなあ。はじめて長崎に来たときはそりゃあびっくりしたもんだ。生きながらにして地獄に堕ちたのかと思った」
「どういうこと」
「長崎は日本の貿易の拠点だからオランダ人やらポルトガル人やらの西洋人がわんさかいてな。俺が西洋人を目にしたのは長崎がはじめてだったんだが、背が高くて金髪のその外見がまるで鬼のように見えたんだ」
「たしかに最初はちょっと面食らうかもね」
「まあ、シャムではじめて象を見たときほどではないけどな」
「長崎の街はどうだった」
「街並みの景色も異国のようだった。西洋人の商館なんかがあってな。そういえば、ちょっと面白い工芸品も売られてたな」
「どんなの」
「べっ甲といって、どこかの国からの交易品の海亀の甲羅を原料にしているらしい。少し透き通ったあめ色をしていて、それで櫛やらかんざしなんかを作っているんだ」
「ふーん」
長政は髪の毛にべっ甲のかんざしを挿したニウィといっしょに長崎の街をぶらぶらと散歩するところを想像してみた。すると、それだけで心がじわりと温かくなっていき、侍として名を馳せるという夢は霞んでいく。もしかしたらこんなのでよかったのかもしれない。自分が本当に求めていたものはこれだったのかもしれない……。
そのとき、背後から人の気配が近づいてくるのを感じた。振り返ると、三人の王宮の近衛兵がそこに立っていた。
「長政様、ここにおりましたか。王宮から緊急召集がかけられています。急ぎ、王宮までご同行をお願いします」
「なにがあった」
「ペッブリーでマンコンが反乱軍を結成し、アユタヤに向かってきているようなのです」
「……そうか」
長政がニウィのほうを見ると、彼女は静かに首を横に振る。が、それを振り切り、竹竿を置いて腰を上げた。
「すまない。仕事なんでな……」
そして彼女をそこに残して近衛兵たちといっしょに歩いた。歩きながらこれからの身の振り方を考えた。マンコン率いる反乱軍を制圧したら、ソンタム王への恩返しはもう十分に果たしたことになるだろう。だから、それを最後にして王宮の貴族も日本人町の頭領も辞任しよう。
——そして……。
長政は足を止める。近衛兵が訊いた。
「いかがされましたか」
「ちょっとだけ待っててもらえるか」
長政はそう言ってニウィのほうに踵を返した。彼女はずっとそこに立っていた。
「ニウィ、あのな……」
「うん」
「この戦いが終わったら、俺といっしょに日本に来てくれないか」
「え、それって……」
「俺と結婚してほしい」
ニウィはその言葉に小さくうなずき、目を潤ませて長政の胸に飛び込んできた。そこに感じる彼女の温もり。長政はそれを全身で受け止めたくて、彼女の華奢な体を両腕でぎゅうと優しく包み込んだ。
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