第3話 無国籍酒場

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第3話 無国籍酒場

 陶器のお猪口に注がれたラオロンという蒸留酒の表面で蝋燭の炎がゆらゆらと揺れていた。窓外には墨で塗り潰したかのような暗闇が広がっている。その窓の上からはこの酒場の屋根を葺いているニッパヤシの尖った葉が覗き、店内の蝋燭に照らされて暗闇の中にぼんやりと浮かびあがっていた。  アユタヤには日本人の他、オランダ人、中国人、カンボジア人、ポルトガル人……など主に貿易業に従事する多くの外国人が居住しており、王宮周辺にそれぞれの国ごとに町を形成していた。この酒場は周囲をそれらの外国人町に囲まれながらもそのどこにも属さない一画に立地し、多国籍の客を相手に営業していた。  さまざまな言語で賑わうその店内をニウィというシャム人の若い女が慌ただしく駆けまわって給仕していた。黒髪を真ん中で分けて後ろに流し、ピンクの絹のドレスから片方だけ露出した肩は蝋燭の炎に艶やかに照らされている。  長政はそれを横目に見ながらラオロンを呷り、肴の雷魚を箸で摘んだ。表面にたっぷりと塩をまぶし、臭み消しのために口の中にレモングラスを突っ込んで炭火で焼いたものである。その身には脂が乗っていて柔らかく、淡白な味わいだった。 「よう、あんた……」  ふいに対面の席に立派な口髭をたくわえたオランダ人の男が座った。かなり酔っているようで頬は赤く染まっている。この酒場で何度か顔を合わせたことはあったが、声をかけられたのはこのときがはじめてだった。 「なんだ」 「ただのお侍さんかと思っていたが、貿易もやってるんだってな」 「それがどうした」  オランダ人の言うとおり、長政はアユタヤ王朝に仕える日本人義勇軍に所属する傍ら、日本とシャム間の貿易も主導していた。江戸幕府から貿易の許可証となる朱印状を発行してもらって行う朱印船貿易である。 「俺もこのアユタヤを拠点に貿易をやっているんで一度挨拶しておこうと思ってな」  オランダ人は丁寧な物言いをするが、その口調には明らかに敵意が滲んでいた。日本とシャム間の貿易はもともとオランダが独占していた。が、そこに長政が参入して急激にシェアを拡大し、オランダは徐々に撤退せざるを得ない状況になっていた。しかし、そんなことは長政の知ったことではなかった。 「そうか。よろしくな」  長政はそうおざなりに言葉を返してからお猪口を口に近づける。そのとき、その手を下からオランダ人に押され、ラオロンが顔にばしゃッとかかってしまった。 「おっと、すまない。手が滑っちまった」  その様子を少し離れた席から見ていた他のオランダ人が笑い声をあげた。 「へッへへへ」  長政も苦笑いを浮かべた。そして傍に置いていた刀を手に取り、親指で鍔を押して鞘からはばきを覗かせた。斬るつもりはなかった。ただ少し脅かしてやるだけのつもりだった。が、そのときだった。 「ダメ!」  ニウィが駆け寄ってきて大声でそう言うと、刀の柄の先を押して鞘に戻させる。 「ここで喧嘩は許さないよ」 「いや、別に喧嘩なんて……。というか、こいつのほうから喧嘩を売ってきたんだ。見てただろ」 「そもそもそんな物騒なもの店に持ち込まないでよ」 「それは無理な話だ。俺たち侍にとって刀は命のようなものだからな」 「それならせめてこの店の中で刀を抜くのは絶対にやめて。お客さんが怖がって来なくなっちゃうよ」 「……ごめん」 「今度刀を抜いたら出禁にするからね」 「……わかった」  長政はまるで母親に叱られる小さな子供のように首を垂れてしゅんとなる。彼のそんな情けない姿を見てオランダ人も溜飲が下がったのか、がはははと豪快な笑い声をあげながら自分の席に戻っていった。  夜が更けていくにつれて店内の客はまばらになり、客の賑わいよりも外の虫の鳴き声のほうが目立つようになっていった。長政に絡んできたオランダ人もいつの間にかいなくなっていた。  長政もラオロンでかなり酔いがまわり、蝋燭の炎をただぼんやりと見つめていた。ことッと目の前になにか置かれる音で我に返った。ニウィが卓上に丸くて平たい菓子が何枚か乗った皿を置いていた。 「これは?」 「ビスケットっていうポルトガルのお菓子。ポルトガル人に作り方を教わって作ってみたの。食べてみて」  ニウィは猫のような大きな目で長政をまっすぐに見つめて言った。 「この店で出すのか?」 「うーん、長政さんの反応次第かな」  長政は菓子をひとつ手に取って眺めた。形は日本のせんべいに似ているが、サイズはそれより一回り以上も小さい。一口齧ってみた。口の中でほろほろと崩れ、仄かな甘みが広がっていく。 「どう?」 「はじめて食べる味だ」 「美味しい?」 「ああ、美味い」 「よかった」 「だがな、これは酒には合わんぞ」 「それじゃあ、店には出さないで、長政さんにだけ作ってあげるよ」  ニウィはそう言って蕩けるような笑みを見せた。その表情には長政を叱りつけたときの険しさはもう微塵もなかった。
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