第7話 鯰釣り

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第7話 鯰釣り

 岸辺の木々や尖った仏塔の影が揺れる深緑色の川面を大量の浮草がゆっくりと流れていた。そこに乳白色の日が差し込み、浮草の間できらきらと煌めいている。長政は石で舗装された川縁に腰かけてそこに釣り糸を垂らしていた。  背後から人の気配が近づいてくるのを感じた。長政は少しだけ顔を振り向かせて横目でその姿を確認する。そしてなんにも気付いていないような素振りで前に向きなおり、ふッと笑みをこぼした。  しばらくして柔らかな指先の感触とともに視界が塞がれた。 「ニウィだろ」 「どうしてわかったの」 「俺にこんなことをするのはおぬししかおらん」  ニウィは長政の隣に腰を下ろした。そして一枚の洗濯板とたくさんの衣類が入った木のたらいに川の水を入れる。 「いつもここで釣りしてるよね」 「ここがいちばんよく釣れるんだ」 「本当に?」  彼女は首を傾げて長政の傍に置かれていた竹編みの魚籠を覗き込む。 「その割にはまだ一匹も釣れてないみたいだけど」 「今日は調子が悪い」 「ふーん」  ニウィはなにか意味ありげな微笑を浮かべる。 「なんだよ」 「別に……」  長政がここで釣りをするのはニウィに会うためだった。この場所のこの時間に彼女はいつも洗濯に来るのだ。彼女のほうもそれに気付いていたのかもしれないが……。 「ところでさ、アユタヤに攻め込んできたスペイン艦隊を撃退したのは長政さんたち日本人だって聞いたけど、本当なの?」 「ああ、本当だ」 「長政さんもそこで戦った?」 「俺は……」  彼女にあまり血生臭い話はしたくなかったので、適当に誤魔化すことにした。 「ずっと寝てた。起きたときにはもうぜんぶ終わってたよ」 「ふふッ、長政さんらしい。あの夜はかなり酔っ払ってたもんね。ちゃんと家に帰れるのかも心配だったもん。でも、よかったよ。長政さんが危険なことに巻き込まれなくて」  川面に反射する日差しが柔らかな粘土のように伸びたり縮んだりしながら揺らめいている。そこにニウィが衣類を洗濯板でごしごし擦る音が響く。ゆっくりと流れるのどかな時間。数日前のスペイン艦隊との戦いやソンタム王との謁見は現実感を喪失し、まるで夢の中の出来事のように思えてくる。 「長政さんの故郷は雪が降るの?」  ニウィがふいに訊いた。 「いや、俺の生まれ育った地域はあまり降らなかったが……」 「どんな感じなの?」 「白くて冷たい。たくさん降り積もるとすべての音がそこに閉じ込められてあたり一面が静寂に包まれる」 「ふーん」 「見てみたいか?」  ニウィはうなずく。 「長政さんはこれまでいろんな場所を見てきたんだろうけど、私はこのアユタヤしか知らないから」 「そうか……」  長政は少し考えてから彼女のほうに顔を向けて冗談めかして言った。 「なあ、ニウィ。もしよければ俺といっしょに日本へ……」  そこまで言いかけたところでニウィが言った。 「あたってる!」 「え?」  長政の握る竹竿の先がピクピクと動いていた。両手には魚の重みをしっかりと感じる。慎重に竹竿を立てると、黒い鯰が川面にぬっとその姿を現す。が、そこでハリが外れ、また水中に姿を消してしまった。
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