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第8話 シャム拳法の使い手
すべては順調だった。長政はアユタヤ王朝で上から二番目の貴族のランクであるオークプラまで昇進し、内政に深く関わるようになっていた。また、朱印船貿易のほうはソンタム王の後ろ盾のおかげで香辛料の産地であるジャワ島のバタビアまでルートを拡大することができ、さらなる利益を上げていた。
長政はその日の宮廷への出仕を終えてアユタヤの城下町を歩いていた。すると、雨粒がポツリと頬を打つ。空を見上げると、灰色のどんよりとした雲が立ち込めている。城下町を少し散歩しようと思っていたのだが、雨脚が強くなる前に家路につくことにした。
やがて城下町を取り囲む煉瓦の城壁が見えてきた。その先のチャオプラヤ川を渡し船で渡り、少し歩けばすぐに日本人町である。
城壁の門戸の近くにひとりの男が腕組みをして立っていた。少し艶のある深緑色のシルク服にえんじ色の布を何重にも巻いて前で結んでおり、そこに黄金色の鞘に収まった剣を差している。
「よう、待ってたぜ」
近くまで行くと、男のほうから話しかけてきた。頭の両側を刈り上げ、上部の髪の毛を後ろに流している。王弟シーシンの侍臣のマンコンである。彼が長政に向けるその敵意のこもった視線にはかなり前から気付いていた。
「二人きりで話したかったんだ。宮廷ではなかなかその機会がなかったからな」
マンコンはそう言って腕組みをしたままゆっくり歩み寄ってくる。
「なんの用だ」
「おまえの目的はなんだ。どうして日本人がアユタヤ王宮に仕えている。この国の乗っ取りでも企んでいるのか?」
「バカなことを抜かすな。俺はソンタム王のことを慕って……」
「そりゃあ慕うよな。おまえの貿易の仕事、王にかなり後押ししてもらっているそうあないか。おかげでだいぶ儲かってるんだろ」
「言いたいことはそれだけか。ならば、俺は行くぞ。おまえのくだらないお喋りに付き合っている暇はないんでな」
長政がそう言ってマンコンの横を通り過ぎようとすると、マンコンは鞘に収まった剣を横に突き出して道を塞ぐ。
「そう急ぐなって。本当は暇なんだろ」
「まだなにか用か」
「おまえは武にも優れているという噂を耳にした。それがいったいどれほどのものなのか拝見したくてな」
「今ここで確かめてみるか」
長政は腰に差した刀の鯉口を切る。
「いや、待て。王宮の貴族同士が真剣で斬り合うのはさすがにまずい」
マンコンは城壁に立てかけてあった二本の木剣を手に取り、そのうちの一本を長政に渡した。軽いが、強打すれば骨が砕けそうなくらいの硬さはあった。
「こいつでやろうぜ」
「面白い。受けてたってやるよ」
二人は城壁から離れ、周囲に障害物のない開けた場所で向かい合った。マンコンは木剣を握る手を交差させてこめかみのあたりにもってくる上段霞の構えをとる。ポツポツと徐々に強くなっていく雨が二人の肌を濡らしていく。マンコンの構える木剣の先端がゆらゆらと揺れた。それがヒュッと動いた。
カッ! 雨の中に木のぶつかり合う乾いた音が響いた。二人は一度離れてからまたすぐに間合いを詰めて激しく打ち合う。カッ、カッ、カッ……。
雨粒を薙ぎ払うかのような長政の横一文字斬りにマンコンは体をよろめかせた。長政は木剣を斜めに振り下ろす。が、まるで猫のようにぬるりとした柔軟な動きでかわされてしまった。
さらに踏み込もうとしたところにみぞおちに前蹴りが突き刺さった。
「ぐッ、かは……」
長政は呼吸困難に陥り、雨に濡れる地面に片膝をつく。
気が付くと、大勢の野次馬が闘技場の壁のように二人を遠巻きに取り囲んでいた。マンコンは木剣を真上に放り投げてくるくると回転させ、余裕の笑みを見せている。長政が立ち上がると、再び上段霞の構えをとった。
地面を蹴って長政から前に出た。ぶつかり合う木剣。マンコンはしなやかな体捌きで長政の素早い連続攻撃をしのぎながらもじりじりと後退していく。それに合わせて野次馬の壁も下がっていった。
しばらくしてマンコンがまた体をよろめかせる。長政は前に踏み込んだ。が、嫌な予感がして足を止めた。それと同時にマンコンの右足がピクリと動いた。
——やはり……。
蹴りを放つための誘い水である。
マンコンは体勢を立てなおすと、素早く踏み込んで木剣を振り下ろした。長政は木剣でそれを受けると、手にビリビリと振動が伝わる。次の瞬間、彼の木剣は宙に飛んでいた。木剣を握る両手を蹴り上げられたのである。
無防備になったところへマンコンの木剣がさらに襲いかかる。長政の髪の毛をヒュッと掠めた。長政の尻には冷たい水の感触が広がっていく。寸前のところでかわすことはできたのだが、地面に尻餅をついてしまっていた。
目の前に木剣に先端を突きつけられた。もしこれが真剣勝負であったならばすでに勝負はついていた。が、マンコンは次にまったく予想外の行動に出た。自分の木剣をポイと放り捨ててしまったのである。
「……どういうつもりだ」
マンコンは上に向けた人差し指をくいくいと前後に動かして挑発し、腰を少し落として両方の拳を前に構えた。
「素手でやろうぜ」
「そうか。その構え……」
ソンタム王の三代前の王であるナレスワン王がビルマのタウングー王朝との戦で用い、勝利に大きく貢献したというシャム拳法である。その噂は耳にしていたが、その使い手と対峙するのははじめてのことだった。
長政も素手の喧嘩にはそれなりに自信があった。立ちあがって拳を構えると、マンコンは回し蹴りを放つ。長政はそれを左腕で防ぎ、相手の顔面に右の拳を放った。
ゴッと火花が散った。相打ちで自分の顔面にも拳をもらっていた。口の中には苦い血の味が広がっていく。
「へッ、やるね」
久しく味わう素手の喧嘩ならではの味。それをぺッと吐き出して拳を構えなおした。その一撃で頭はすっきりと冴え渡っていた。視界はより鮮明になり、降りしきる雨の一粒一粒、そして雨で濡れてマンコンの額に貼り付く髪の毛の一本一本まではっきりと見えていた。
二人の足元で泥水がぴちゃりと跳ねた。その真上で拳と蹴りが激しく飛び交う。地面の水溜まりに幾重もの波紋を作る雨に交じって血が降ってくる。
長政はマンコンの大振りになった拳をかいくぐって相手の懐に飛び込んだ。そして相手の襟首を掴んで投げようとする。が、次の瞬間、逆に自分の首を掴まれ、腹部に強烈な膝蹴りを叩き込まれた。
「ふごッ……」
まるで大砲を撃ち込まれたかのような衝撃に悶絶し、地面に仰向けに倒された。
灰色の空から無数の無数の雨粒が直線的に降りかかってくる。その光景にマンコンの姿が飛び込んできた。その足が長政の顔面に向かって振り下ろされた。首を捻ってそれをかわすと、耳元でぐちゃりと泥水が跳ねる。すぐにマンコンの足を掴んで地面に引きずり倒した。全身に泥水を浴びながらもつれ合った。
マウントポジションをとったのは長政だった。相手の襟首を掴み、顔面に向けて勢いよく自分の頭を振り下ろした。額に肉の潰れる感触があった。頭を上げると、マンコンは白目を剥いて鼻血を流している。はだけた胸元からはサクヤンという幾何学模様のような刺青が覗いていた。
——もう一発……。
反動をつけるために背中を大きく反らせた。が、そのとき、マンコンは腰を浮かせて体をアーチ状にする。長政はバランスを崩し、前のめりで地面に片手をついてしまった。マンコンはその機を逃さず、体をぐるりと回転させてマウントから脱出した。
マンコンは乱れた上衣を脱ぎ捨てて上半身裸になる。盛り上がった胸筋を血の入り混じった雨滴が流れていく。両者のダメージはほぼ互角。いや、長政のほうがやや大きいだろうか、目の前で拳を構えて立つマンコンの姿が少しだけ霞んで見えていた。
そして再びの拳と蹴りの応酬。打撃ではやはりマンコンのほうに分があった。長政はじりじりと後退していく。得意の投げに持ち込めればいいのだが、不用意に近づけば、また首を掴まれてからの膝蹴りが待っている。それに上衣を脱ぎ捨てているので、かけられる投げ技も限られてしまっていた。
選択肢はひとつしか思いつかなかった。長政は相手の顔面に細かく拳を打ち、それから身を低くして相手の懐に飛び込んだ。相手の注意を十分に上に引きつけてからの低空タックル。両足を掴んで地面に引き倒す……はずだった。
ゴスン! 鈍い打撃音を他人事のように聞いたのを最後に意識は途絶えた。
暗闇。
やがて意識が戻る。薄く開けた目に広がる灰色の空。背中に感じる水の冷たさ。そしてズキンズキンと波打つ顔面の痛み。
「立ってこいよ。これで終わりじゃないだろ」
マンコンの声が聞こえた。長政は上半身を起こすだけで精一杯だった。マンコンは長政が飛び込むのに合わせて膝を出してきたのだろう。なんという反射神経だろうか。
——ダメだ。勝てない……。
戦いを続ける体力も気力もすでに残されていなかった。が、それでもマンコンは拳を前に構えて戦いの続きを促す。
「来ないのならこっちから行くぜ」
マンコンは前に踏み込んだ。長政は地面に腰を下ろしたまま、それでも無意識の本能で拳だけを前に構えた。そのときだった。
「やめて———ッ!」
ひとりの女が駆けてきて長政をかばうようにして両手を広げた。ニウィだった。
「どけ。殺すぞ。女が男の勝負に入ってくるな」
「勝負ならもうついてるじゃないですか。お願いです。もうこれ以上はやめてください」
ニウィのその必死な懇願にマンコンはようやく拳を下ろした。
「女に助けられるとはな。情けない男だ」
彼はそう言って脱ぎ捨てた上衣を拾い、立ち去っていった。周囲を取り囲んでいた野次馬たちもぞろぞろとそこを離れていく。
長政は前のめりに倒れそうになる。ニウィは屈んでその体を抱きかかえた。長政の額が彼女の肩に乗った。
「どうしてここに……」
「長政さんが城下町で喧嘩してるって話を聞いて」
「かっこ悪いとこ見せちまったな」
「なんで喧嘩なんか……」
「あいつから喧嘩を売ってきたんだ。日本人の俺が王宮で幅を利かせているのがどうも気に入らないらしい」
「もうやめてよ、こんなバカみたいなこと」
「バカみたいとはなんだ。喧嘩を売られて逃げるのは負けを認めることになるだろ」
「負けでいいじゃない。どうして勝つ必要があるの。強くなんてなくていい。もうこれ以上の出世もしなくていい。だから……」
長政はニウィの肩から頭を上げて言い返そうとする。が、彼女の今にも泣き出しそうな顔を見るとなにも言葉が出なくなってしまった。
「行こう」
「もう一歩も歩けない」
「私がおんぶしてあげる」
「できるのか」
「バカにしないで。酒場の仕事で力は鍛えられてるから」
「俺はラオカオの急須なんかよりずっと重いぜ」
「つべこべ言ってないで早く」
ニウィはそう言って屈んだ姿勢で長政に背を向ける。彼はそこに抱きつくようにして乗った。
「じゃ、行くよ」
ニウィは腰を上げた。が、その途端にバランスを崩して倒れ、二人とも水浸しになってしまった。
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