第9話 王の遺言

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第9話 王の遺言

 長政はアユタヤ王宮を四角く取り囲む城壁の角に設けられた櫓から城下町を眺めていた。入道雲の沸き立つ青空の下、ニッパヤシの葉で屋根を葺いた木造家屋が規則正しく建ち並んでいる。通りには肩に木材や天秤棒を担いだ上半身裸の男たちが多く行き交っていた。  櫓の内部に螺旋状に設けられた階段をコツコツと上がってくる足音が聞こえた。それがすぐ背後まで近づいてきたとき、後ろを振り返って驚愕した。 「陛下! なぜこちらへ……」  長政は煉瓦の床に片膝をついて頭を垂れた。 「櫓の上で呆けた顔をしているそなたの顔が見えたものでな。頭を上げろ。二人きりのときまでそう畏まる必要はない」  長政は遠慮がちにゆっくりと腰を上げた。ソンタムは王宮にいるときと違って冠を被っておらず、着ているのもシンプルなデザインのシルク服だった。 「日本が恋しくなったか?」 「いえ、そんなことはありません。シャムは一年中暑いので、日本の冬の寒さが懐かしくなることはありますが……」 「冬の寒さ……か。私が一度も経験したことのないものだ。王宮での仕事はどうだ。他の貴族たちとはうまくやっているか」 「はい、なんとか……」  マンコンとの一件が脳裏によぎったが、そのことは胸にしまっておくことにした。 「ところで、そなたに大切な話があってな、日本では家督を誰に継がせている?」  長政は少し考えてから答えた。 「ほとんどの場合、自分の子です」 「やはりそうか。他国ではそれが当たり前なのだろうな。私も自分の長男であるジェッタに王位を継承させたいのだが、この国では王位は弟が継承することになっていてな……」 「陛下、いったいなんの話をしておられるのですか。王位継承の話などまだあまりにも早過ぎるではありませんか」 「いや、ここだけの話だが……」  ソンタムは櫓を丸く囲んでいる煉瓦の壁に背中をもたせかける。そしてギラギラと照りつける太陽を見上げて言葉を続けた。 「おそらく私はもう長くない」 「え……!」 「原因不明の体調不良がずっと続いている」 「医者には診てもらったのですか」 「医者はただの疲れだろうと言っているが、自分の体のことが自分がいちばんよくわかっている。あと一年もつかどうか……というところだな」  長政はソンタムの顔を見つめた。強い日差しに晒されたその顔はわずかに青白く、こけた頬にはくっきりと濃い影ができていた。 「どうかそんなことをおっしゃらないでください。今のこの国をまとめられるのは陛下以外におりません」 「私もこの国の繁栄のためにこれから先も尽力していきたいと思っていたのだがな、それは叶わないのだよ」 「そんなことは……」 「ジェッタはまだ子供ではあるが、他人の痛みのわかる優しい心をもっている。それは人の上に立つ者としてもっとも重要な素質だ。しかし、ジェッタに王位を継承させるのはこの国のならわしに逆らうことになり、反対する者が必ず現れるだろう。そこでそなたにはその反対勢力を抑えてジェッタを擁立し、成人するまで補佐を務めてもらいたいのだ。引き受けてはくれぬか」  ——なぜ俺にそんな大役を……。  長政は返答に窮し、煉瓦の床に視線を落とした。そこにポタリと垂れた汗はすぐに蒸発して消えていった。
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