第1話 ビルマ軍の進撃

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第1話 ビルマ軍の進撃

 空高くに昇った太陽が青空の青をも白く溶かすような強烈な光を放っていた。夏草はその光を全身に纏いながら風にそよいでいる。その陰からいくつもの弓が細い木立のようにちらちらと覗いていた。  山田長政は額から流れる汗を手の甲で拭った。黒の一枚板の甲冑の下の小袖も雨に打たれたかのように汗でびっしょりと濡れている。竹水筒の生ぬるくなった水を口内を湿らせる程度に少しだけ飲んだ。  ビルマ軍がシャムの領土に侵入したとの知らせが入り、アユタヤ王朝のシャム軍はこれを迎え討つことにした。王朝に傭兵として仕える日本人義勇軍約五百人にも召集がかけられた。シャム軍の本隊に先んじて伏兵としてビルマ軍を待ち構え、弓の一斉射撃で敵の戦力を削るというのが彼らに与えられた任務だった。  長政は草むらの中から崖下に広がる平野をじっと見据えていた。ビルマ軍はそこを通過してアユタヤの方向に向かうはずだった。鼓膜に響く風の音。虫の鳴き声。しばらくしてそこにズンと微かな重低音が交じった。 「聞こえたか?」  長政のすぐ近くにいた今村左京が訊いた。総髪を後ろに撫でつけ、額には白い鉢巻を巻いている。切れ長の目をしており、このうだるような暑さの中でもその目元にはどこか涼しげな雰囲気を漂わせていた。 「ああ、聞こえた。すぐ近くまで来ているな」  それはこの部隊を統率する城井久右衛門の耳にも届いたようである。草むらの中から周囲に響き渡る大声で言った。 「全員弓を構えろ!」  兵士たちは全員背中に括り付けた矢筒から白い羽根の付いた矢を取り出し、射撃の準備をした。  それから長い時間が流れた。ビルマ軍はその気配を感じさせただけで一向に姿を現さない。その間にも日差しはなににも遮られることなく容赦なく降り注ぎ続け、兵士たちの体力と水分をじわじわと奪い取っていく。 「妙だな。いくらなんでも遅すぎる。もしかしたら進路を変更したのかもしれない」  左京のその言葉に長政も同意した。 「その可能性が高いな。久右衛門殿と話をしてくる」  長政は久右衛門のいるほうに歩きながらその名前を大声で呼んだ。 「久右衛門殿! 久右衛門殿!」  すると、彼の真横から久右衛門が草むらを暖簾のようにかき分けてひょっこりと顔を覗かせる。深い皺が刻まれ、赤黒く日焼けした肌に白い口髭が浮き立っていた。 「どうした」 「ビルマ軍の到着が遅すぎるのではないかと」 「それがなんだ」 「進路を変更した可能性が考えられます」 「だから、それがなんだっていうんだ。この部隊はここでビルマ軍を待つよう命じられているんだから、ここで待つだけだ」 「これ以上ここで待機しても意味がありません。王朝の命にただ従うのではなく、もっと臨機応変に動くべきではありませんか」 「ここを勝手に動いて、もしそのせいでアユタヤが侵略されたらどうするつもりだ。貴様が責任を取れるのか」  長政は少し考えてから答えた。 「わかりました。すべての責任はこの山田長政が負います」 「ふざけるな!」  久右衛門は急に声を荒げた。 「いいか、この部隊を統率しているのは俺だ。おまえは俺の言うことに従え。俺に意見しようなんざ百年早いわ」  長政は左京のところに戻った。 「どうだった」 「ダメだ。あのクソジジイ、まったく話にならん」 「そうか……」  長政は竹水筒を口にもっていって傾けた。が、すでに空で水は一滴も出てこない。喉の乾きは限界に達しようとしていた。  しばらくして微かに聞こえてきた獣の鳴き声に長政はゾクリとした。崖の反対側のほうからである。ビルマ軍の騎象隊だろう。やはり進路を変更していた。この部隊の存在に気付き、後ろから回り込んで攻撃してこようとしているのだ。久右衛門の号令を待っている余裕はなかった。 「ビルマ軍来襲! 全軍撤退——ッ!」  長政はそう叫んで鞘から抜いた刀で撤退の方向を指し示した。崖の反対側から迫り来るビルマ軍と垂直の方向である。兵士たちは大挙してその方向へ走った。弓足軽と騎象隊が正面からぶつかりあって勝てるわけがなかった。  やがて巨大な爪で空気を引っ掻くような甲高い鳴き声とともに一頭の象が草原の地平線から姿を現した。その首根っこに座るビルマ兵は銅鎧と丸い帽子のような兜を着用し、物干し竿のように長い槍を構えている。その後ろの兵士は四方を板で囲われた鞍に乗り、その鞍の後部からは何本もの槍が放射状に伸びている。象の足元周辺にも槍を構えた兵士が何人もいた。  鞍の上の兵士が両手にそれぞれ構える二本の孔雀羽根を前に振った。すると、その象に続いて何頭もの象が地平線からぞろぞろと出てくる。  自軍の兵士が逃げ惑う中、長政は弓を捨てて刀を構えた。 「なにをしている!」  左京が怒鳴った。 「俺がしんがりを務める」 「刀一本でどうにかなる相手か!」  左京は長政の隣に立って弓を構えた。その二人の前を自軍の兵士たちがわらわらと駆けていく。その向こう側から騎象隊が津波のような威圧感を放ちながら迫っていた。ビリビリと大地が震えた。  左京は弓を引いて象の上で槍を構えるビルマ兵に狙いを定める。ヒュッと矢を放ち、ビルマ兵の額を貫いて地面に落下させた。  しかし、象は騎手のひとりを失いながらもさらに前進を続ける。その巨体で日本兵を跳ね飛ばし、その上のビルマ兵が槍で追い討ちをかける。  長政はその象に向かって駆けた。象の周囲を取り囲むビルマ兵を閃光のように素早い刀捌きで瞬く間に斬り伏せた。  ズンと大地が揺れた。顔を上げると、目の前に象の白い牙があった。象が体を動かすと、その背後から現れた日差しが長政の目を射抜く。反射的に目を薄く閉じたところに槍が飛んできた。  キンと刃が交わった。長政は槍を横に受け流すと、その柄を掴んでぐいと強く引っ張る。ビルマ兵は前に倒れそうになるが、槍をあっさりと諦めてパッと手を離した。長政はバランスを崩して地面に尻餅を突いてしまった。  日差しが遮られた。頭上に象の足の裏が迫っていた。振り下ろされた。象が悲痛な鳴き声をあげた。持ち上げられた象の足の裏からは鮮血が迸っている。長政は踏みつけられそうになった瞬間、刀の刃を上にして地面に立てていたのである。  象は横向きに倒れて地響きを起こし、騎乗していたビルマ兵は地面に放り出される。そこから波紋が広がるようにして騎象隊の行進が乱れていった。  左京はその機を逃さず、立て続けに矢を放ってビルマ兵をひとり、またひとりと着実に倒していく。 「長政、もういい! 退くぞ!」  左京が叫んだ。自軍の兵士はあらかた撤退していた。長政もその最後尾について退くことにした。  しかし、その途中、視界の隅に映った光景に足が止まった。象がひとりの兵士の首を鼻で掴んで空中でブンブンと振りまわしていた。それはまるで腕白な子供が人形を振りまわして遊んでいるかのようだった。振りまわされている兵士の顔が一瞬こちらを向いた。久右衛門だった。 「な……!」  踵を返そうとしたところを左京に後ろから肩を掴まれた。 「行くな! あやつはもう助からん!」 「しかし……」  束の間の逡巡。唇を噛み締める。 「あんなクソジジイでも見捨てるわけにはいかん!」  刀を鞘に収め、ビルマ兵から奪った槍を構えて久右衛門の救出に向かった。  騎象隊はすでに体勢を立てなおしはじめていた。長政が単身突撃していくと、象上のビルマ兵の槍が一斉に彼に向けられる。  久右衛門を鼻で掴んでいる象の手前まで来ると、騎乗しているビルマ兵に向かって跳躍した。空中で槍を振りかぶると、ビルマ兵もそれに応えて槍を振りかぶる。ヒュッと突かれた。数本の髪の毛がハラハラと空中に舞った。長政はビルマ兵の攻撃を身を捩ってギリギリのところでかわしていた。その状態から槍を放った。 「ぐふッ……」  刃がビルマ兵の喉に深く突き刺さる。ドッと血を噴き出しながら地面に落下した。  長政はそのままの勢いで象の鼻にしがみつき、そこから体をよじ登っていった。まばらに生える体毛は竹箒のように硬い。頭の上に立つと、鞘から刀を抜いた。目の前でビルマ兵が鞍に座っていた。 「死にたくなかったらここを降りろ」  長政は刀の切っ先を彼に向けて言う。ビルマ兵は鞍の後部に何本も差さっている槍のうちの一本を抜き取って前に構えた。  刃が煌めき、血飛沫が飛んだ。  勝負は一瞬だった。長政は刀の間合いに素早く踏み込み、ビルマ兵に攻撃の機会すら与えずに斬っていた。  その後ろにさらにもうひとりビルマ兵がいた。棒の先端に鎌のような金具の付いた、象を制御するための道具を片手に持ち、象の背中にしがみついている。長政が刀を向けるとすぐにそこから飛び降りて逃げた。  象の大群は周囲に見渡す限り広がっており、地鳴りのような音を響かせながら走り続けた。象の背中はひどく不安定で、その周囲の光景と相まってまるで激流の大河に浮かぶ丸太の上にでも乗っているかのような気分だった。  両側を並走していた二頭の象が距離を詰めてきた。そしてその上のビルマ兵が長政に槍を向ける。挟み撃ちにするつもりらしい。が、もう相手にするつもりはなかった。  長政は象の頭から飛び降り、落下しながらその長い鼻をスパンと一刀両断した。そして着地。鼻といっしょに落ちてきた久右衛門の体を背負い、刀を鞘に収めた。そこからはただひたすらに走った。  頭上を何本もの矢が飛んでいき、象の分厚い皮膚にプスプスと突き刺さる。左京たちの援護射撃である。それで仕留めることはできなくてもその行進をわずかに遅くするくらいの効果はあった。  男ひとりを背負っての全力疾走で脚の筋肉は千切れそうなほどの痛みを発し、心臓は破裂しそうなほどに激しく鼓動した。 「もういい……」  久右衛門が耳元で蚊の鳴くような声で呟いた。 「俺を置いて逃げろ」 「うるせえな。黙ってろ、ジジイ」  やがて地面は下り坂になり、速度が上がっていく。その先に太い木々の密集する森林が見えた。 「もう少しだ。あともう少しで逃げ切れるからよ」  そこまで逃げれば巨体の騎象隊はもう追ってこれなくなるだろう。先行の自軍の兵士は続々とその森林の中に消えていった。
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