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1.雷鳴のあと、音のどしゃ降り
桜の花びらが夕暮れの街に溶けていく。
無機質なビル群に明かりが灯る。通行人は急ぎ足で地下道に潜り、僕は浮かんだメロディを口ずさみながら雑踏を歩いていく。
帰宅ラッシュの群れをすり抜けて裏通りに入ると、無数のネオンサインが瞬いていた。排水溝から立ちのぼる臭気と、舐めるような視線で僕を見る大人たち。
「あっと……ごめんなさい」
すれ違いざまに肩が当たって僕はよろけた。黒いキャップを目深に被った男がにやっと笑う。前歯が何本か抜けている。生ぬるい風と共に長い髪が揺れた。僕は素早く頭を下げ、バイオリンケースを抱えて走り出す。
地下鉄の駅から十五分ほど歩き、ライブハウスの看板を見つけた。上着のポケットから古い手帳を取り出してページを開く。
──彼の居場所がわかった。矢紘に会わせた方がいいのだろうか――
父さんの手帳にはライブチケットが挟まっていた。日付は十年前、場所はライブハウス『ホット・スプリング』だ。これは何のことかと母さんに尋ねると、母さんは長いため息をついて「捨てなさい」と言った。
手帳はすぐに隠した。今はバイオリンケースの底に入れてある。
今夜は母さんに内緒でこのバンドのライブに乗り込みに来た。祖父から譲り受けたバイオリンも持参している。不慣れな場所に足が少し震えている。
かび臭い地下通路の奥からかすかにギターの音が漏れ聴こえる。
奥にある重い扉を開けた途端、凄まじい音圧が迫ってきた。薄暗い空間にステージが浮かぶ。左右には巨大なスピーカーが置かれ、その真ん中で七弦ギターをかき鳴らす男がいた。
つり上がった目の奥が鈍く光る。ウルフヘアを振り乱しながらマイクに向かって声を張り上げると、観客が絶叫し始めた。
いかめしい風貌に似合わない、天に昇るようなハイトーン。エレキギターを操る指先は独立した生き物のように蠢き、ギターのリフに合わせてドラムセットのシンバルが高々と響き渡る。
スティックを操っているのは女性のドラマーだった。束ねた金髪を揺らし、スラリとした腕でスネアドラムを叩く。
ウルフヘアの男は4オクターブ近い高音域まで一気に声を張り上げた。
歌声とギターの響きがからみ合い、胸のど真ん中を貫いていく。
呆然とする僕を取り残して、次の曲が始まった。雨粒のようなアルペジオに、そっとベースラインが滑りこむ。
熱狂していた観客たちは静まり返った。囁くように歌が始まる。
曲調の振れ幅に気持ちがついていかない。急降下したところからの助走、泣きたくなるような哀愁のあるメロディ、また激しく踊り狂うリズム。
演奏は七曲、止まることなく続いた。聞いているだけで息切れしそうになっていると、ウルフヘアの男が汗を拭いながらマイクに顔を近づけた。
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