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「今夜はおまえらに聞かせたい音がある」
観客がざわつくと、男は七弦ギターを下げたままステージを下りてきた。見上げるほど背の高い彼が僕の目の前に立つ。
「どうしてここに来た」
「どうしてって……」
低い声色に息を飲む。男はそばかすの浮いた白い肌をこすると、腰をかがめて僕に顔を近づけた。
「おまえ、矢紘だろ」
「そうですけど」
「来い」
ものすごい力で腕をつかまれ、バイオリンケースごとステージに引きずり上げられた。何事かと戸惑う僕にかまわずギターのチューニングを始める。
「さっさと準備しろ」
「準備って何を」
「バイオリンに決まってるだろ。それとも母親みたいに歌うのか」
「歌いません」
「早くしろ、ライブの熱が冷める」
勝手な人だなと思いながらバイオリンケースを開けた。断ったらたぶん客からブーイングが来るだろう。僕に拒否権はない。
バイオリンを肩に乗せて弓毛を引き絞ると、ベーシストの男が後ろからのぞき込んできた。
「うっひょーすごいオールドバイオリンだねえ」
「祖父から譲り受けたものですから」
「君って金持ちのボンボン? それかサラブレッドとかいうやつ?」
アッシュカラーに染めた髪を揺らしながら不気味な笑い方をした。無視して音叉を取り出したが、周りがうるさすぎて使い物にならない。
「幹也、電子チューナーを貸してやれ」
そう言ったのはドラマーの女性だった。こめかみから汗が流れ、タンクトップ一枚の豊かな胸元が濡れる。
肌は透けるように白く、瞳には不思議と赤い光が灯っている。絵画からとび出したみたいな人だなと、緊張しながら弓を構えた。
「チューナーはいりません。Aの音、下さい」
「アー? そんな音ねぇぞ」
「アルファベットのA音です」
弓毛でA線を軽くこすると、男はすぐにギターの上から2番目の弦を鳴らした。実音のラがライブハウスに響く。集中して聞き取りながらA線を合わせ、次はA線とD線を同時に弾いてチューニングをしていく。
彼はバイオリンに合わせてギターもチューニングし直した。一番太い弦はどんな音なのだろうと耳を澄ませていると、ボーンと腹に響くような低い音が鳴った。
「一番下はHなんですね」
「は? 今のはBだろうが」
音楽なのに話が通じない。相手はアメリカ音名だし言いたいことは何となくわかるけど、やりづらい。
客席から「何やってんだ」「早くしろ」とブーイングが起き始めた。僕はバイオリンを構えて音階を弾く。
「何を弾けばいいんですか」
「16ビートでキィGのカノン進行を二回。サビはベタなアレだ。あとは聞いて好きに弾け」
カノン進行はわかるけど「ベタなアレ」ってなんだと思ってると、男はピックを握った右手を振り下ろした。腹の底まで染みるような振動に背筋がぞわりとする。
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