第1話(プロローグ1)

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第1話(プロローグ1)

 忌まわしいあの事故から三年と少しが経った。  いや、事故と告げられて正式発表もされたが機内にいた僕はあの時、何が起こったのかを克明に記憶している。ハイジャック防止のために客室側からはコードを打ち込まないと開かないドアから出てきたのは制服を血で染めたパイロットだった。  彼が正気を手放しているのは茫洋とした目や嗤いに歪んだ口元を見なくても、ナイフを頭に突き刺されて絶命したコ・パイロットを引きずっていることからも明らかだった。  コ・パイロットを殺して客席まで歩いてきた狂ったパイロットを制止しようと、果敢にキャビンアテンダントたちは行動してくれた。我が身の危険も顧みず二百二十三名の客の命の安全を最優先してくれたCAたちには僕も感謝している。  それでも空港近くの森に墜落した機から生還できたのは僕一人だった。  明らかに精神を病んだパイロットのメディカルチェックは充分でなかったとして、僕は訴訟を起こそうとした。相手取ったのは某国に本拠地を置く大手航空会社だ。別にカネなんか欲しかった訳でなく、事実を詳らかにしたかっただけだ。  ああ、そうじゃない。僕は社会的制裁だの隠蔽体質への義憤だのという、ご立派な理由で訴訟を起こしたかったんじゃなくて何かせずにはいられなかったのだと思う。  僕の暁姫(シャオジー)。パイロットに刺された彼女が止めどなく温かな血を流し、更には僅かながら息のあった彼女が乗ったまま機体が爆発的に燃え上がるのを、僕は救助されて乗せられたストレッチャの上から呆然と見ていることしかできなかったのである。  暁姫への贖罪の意味も込め僕は立ち上がろうとした。だが政府産業とも云える大手航空会社にとって僕は巨大なエンジンに紛れ込んだ一粒の砂だった。態勢に影響はないが、キィキィと異音を発して人の注意を惹き、故に排除される……。  お蔭で契約した弁護士には次々と断られ僕自身も幾度となく身の危険に晒された。  とうに航空機事故はバードストライクと乱気流の同時発生だと発表されていた。  そんな大嘘が罷り通るのなら僕も正攻法で戦う必要はない。そう気付いた僕は表立って奴らのアキレス腱でいるのを止め、違う方法で彼女の恨みを晴らしてやろうと決めた。  身を隠して以来、約三年。この狭い研究室で僕はまさに寝食を忘れて研究に没頭した。甲斐あって研究は実を結び、先週、約三年ぶりに外出してそれを試してみた。  大嘘吐き共の慌てぶりを見たくてずっとTVをチェックしていたけれど報道はなされない。おそらく影響が大きすぎたのだろう。だが手応えはあった。ネット上では空前の大騒ぎになっている。大嘘吐きの政府が押さえ込めなくなるのも時間の問題だ。  これで手を緩める気はなく、試すと同時にトラップも仕掛けてきた。一見、関係のない人々を巻き込む非道な行為のようだが、あの航空会社を擁護した政府を容認している人々も同罪である。ただ諾々と嘘を受け入れる者を僕は誰一人として許すつもりはない。  どんなに暁姫は苦しく恐ろしい思いを味わったことか。同じく皆も味わえばいい。  そして何処まで政府が嘘を吐くのか、その目で確かめたらいいのだ。  笑おうとしたが三年誰とも喋っていなかったからか声にならなかった。喉が引き攣り吐息が洩れただけだ。ただ吐息は研究室に置いた鉢植えの薔薇の香りを震わせる。  彼女が好きだった薔薇。僕が作った、彼女だけの。  (リー)暁姫、こんな僕でも一日一回、鉢植えにちゃんと水をやるよ。
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