お花見

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お花見

 会社と駅を結ぶ大通り沿い。  会社から駅とは反対方向に少し進んだ場所に、小さな公園がある。  杏奈が就職活動で初めて現在の勤め先である会社を訪れた際、念には念を入れてと早めに家を出たものの、案の定予定よりも随分早く着いてしまい、仕方なく近くを散策している時に偶然見つけた場所だった。  そこには、まだ若そうな幹の細い桜の木が1本あった。  就職活動中には分からなかったが、入社式の帰りに寄った公園で、その桜は満開の花を咲かせて杏奈を出迎えてくれた。 『おめでとう。』と。  まるで、桜の木がお祝いをしてくれているように、杏奈は感じた。  それ以来、お昼休み等の休憩時間や仕事の帰りに、杏奈は度々公園を訪れていた。そして、桜の時期には必ず、1度は訪れることにしていた。年度末や年度初めの、どんな繁忙期であっても、必ず。  その公園は、ビジネス街だからなのか、大通りから少し外れた所にあるからなのか、平日にはほとんど人の姿は見当たらない。静かで落ち着く、杏奈のお気に入りの場所だった。 『桜もだいぶ咲いてきましたね。でも今日は午後からかなり風が強くなります。会社帰りにお花見をされる方は、強風に気を付けてくださいね!』  次々と回覧される書類に埋もれ、気分転換にとコーヒーを口にした時、ふと出がけに見たテレビのお天気お姉さんの言葉が杏奈の頭に響いた。  今年はやけに桜の開花が早く、テレビで見た桜の木も、既に満開状態に花開いていた。 (そういえば、今年はまだ行ってない)  杏奈の胸に、急に焦りが沸き起こる。 (行かなくちゃ)  そう思ったとたんに、正午を告げるチャイムが鳴り響く。  机上に広げたままの書類を手早くまとめ、傍らの小さなバッグを手にすると、杏奈は急いで会社を出た。 「間に合って、良かった」  桜の木の近くのベンチに腰を下ろし、杏奈は既に散り始めている満開の桜の若木を眺めながら、近くのコンビニで購入したサンドイッチとお茶で、軽い昼食を取った。  お昼休みは1時間のみ。  それほどのんびりしている訳にはいかないが、できる限り眺めていたい。  お天気お姉さんが言っていた通り、朝より少し風が強くなってきているようだ。風が吹くたびに、桜の花びらが青空へと舞い上がる。  夜にはさらに風は強まるという。  満開に咲いてしまった桜は、これからはもう散ってしまう一方だろう。 「もうちょっと、早く来られれば良かったのだけど、ね」  ここのところ、仕事に忙殺されていた事は確かではあったが、会社帰りに寄れない時間が無かった訳ではない。時間があると、ついあの雑貨屋に寄ってしまうために、この公園まで足を延ばすことが無くなっていたのだ。 「ごめんなさい、ご無沙汰してしまっていて」  何故だか感じる、まるで浮気でもしたかのような罪悪感に、つい杏奈がそう口にした時。 「あれ?主任さん?」  突然掛けられた声と、その聞き覚えのある声に、杏奈の心臓が大きく跳ね上がった。 (うそっ、なんていうタイミングで……)  振り返ると、公園の入り口から、手を振りながら近づいてくる真咲が見える。 「こっ、こんにちは」 「なんや、お花見かいな。ええなぁ、ここ。キレイな桜、独り占めやん」  言いながら真咲は桜の前に立ち、ひとりでアタフタとしている杏奈には気付いていない様子で、満開の花を見上げた。 「俺も、桜は大好きなんや。まぁ、日本人の大半は好きやろけど。でも、満開の桜もええけど、咲きかけとか……散りかけの桜っちゅーのもまた、趣があってええもんやなぁ」 「えっ?」  ホッとしたのもつかの間。  今日もまた、よくわからない不思議な服を身にまとっている真咲の口から出たとは思えない言葉に、杏奈は思わず桜から視線を移し、真咲を見た。 「『えっ?』って、なんで?」  真咲もまた、杏奈の反応に意外そうな顔を向ける。 「いえ、あの……意外だな、と思ったので。あなたは、満開の桜の方が好きなのではないかと」 「そら、満開の桜の下でやるドンチャン騒ぎは大好きやけどな」  言いながら視線を落とし、真咲は小さく笑った。 「咲きかけの桜の蕾って、な。見てると応援したなるんや。がんばりや~、って。なんや、初めて恋をして、一生懸命キレイになろうとしてる女の子みたいな感じでなぁ」 「確かに」  小さく頷く杏奈に笑顔を向け、真咲は続ける。 「散り始めた桜はな、ありがとさんって、言いたなってしまうんや。花が咲き誇れる時間なんて短いもんやけど、その間めいっぱい楽しませてもろて、ほんまおおきに、って。出すモン全部出し切って、思い残すことなく去っていく、っちゅーか……」  ふぅっと大きく息を吐き、真咲は再び桜へと視線を戻した。 「桜は、その潔さと儚さがええんやろな、きっと」 「そうなのかもしれないですね」  真咲の語りに深く頷き、杏奈も桜を見上げた。  潔さと儚さ。  桜を見る人の多くが感じている事だろうと、杏奈も思う。  だが、まさかそれをこの真咲の口から言葉にして聞かされる事になろうとは。  今のところ、杏奈の知る真咲の人物像にはおよそ似つかわしくない言葉。  違和感を覚えてそっと真咲を窺い見た杏奈は、今まで見たことの無い寂しげな微笑を浮かべた横顔に、ハッとした。  ただ自分が知らないだけで、もしかしたら真咲は様々な辛い経験をしてきているのかもしれない。 (人を見かけだけで判断するのは、やはりダメね)  理解できない服のセンスとか、自分には無い距離感でグイグイ近づいてくる所とか、杏奈は初対面の時からこの真咲には調子を狂わされっぱなしで、『きっとこの人は、いつでも陽気で明るくて、今まで楽しい人生を送ってきている、幸せな人なのだろう』と、いつの間にか思い込んでいたことに、改めて気付いた。  でも、そんな幸せな人間などごく少数であると思う方が、今の世の中を考えれば、自然だ。  杏奈が心の中でそんな反省をしていた時。 「俺もこないなったら、少しは気にとめてもらえるんやろか?」  真咲の小さな呟きが、杏奈の耳に届いた。 「好きな人に近づく為に一生懸命やってるつもりやけど……なかなか満開の花になるんは、難しそうやし。でももし、満開にならんと散ってしもたとしても、この想いは少しでも、残ってくれるやろか……」  自分に向けられた言葉なのだろうか。  杏奈はふと、そんなことを思った。もしかしたら、これは、真咲の自分への想いなのだろうかと。  でも、もしかしたら、とんでもない自惚れかもしれない。杏奈に対する、単なる恋愛相談なのかもしれない。 (でも、どちらにしても、あなたらしくないです)  ひとつ頷くと、杏奈は真咲ではなく、桜を見ながら口を開いた。 「潔く散る桜が人の心を惹きつけるのは、暗黙の内に翌年を約束されているから、ではないでしょうか。私は、散ってゆく桜には、『また、来年ね』と、約束をしています。『また来年会いましょうね』と。そうでないなら……もし翌年の約束もできずに散ってしまう桜を見るのは、悲しすぎます。翌年の約束もできず、満開になることもできずに散ってしまうのなら、その想いはきっと、哀しい思い出にしかならないのではないかと」  もし真咲の『想い』が自分に向けられたものであるならば、このまま散って欲しくはないと、杏奈は思っていた。  自分の想いもよく分からないでいるのに、随分虫のいい願いだとは思ったが。  そして、もしそうではなく、他の誰かに向けられた『想い』であったとしても、やはりこのまま散って欲しくはない、とも思っていた。 (あなたにそんな顔は、似合いません)  杏奈はじっと真咲の言葉を待った。  強い風に吹かれて舞い散る桜の花びらを眺めながら。 「ほな、俺も約束してもらおかな」  数秒の後、真咲が言った。 「えっ?」  思わず視線を桜から真咲へと移すと、真咲はいつもの笑顔を浮かべて杏奈を見ていた。 「来年もまた、ここで俺と一緒に、花見せえへん?」  真咲の言葉に、じわじわと杏奈の胸に温かな気持ちが広がる。 (それって……)  杏奈は笑顔で頷いた。 「ええ、もちろんです」 「ありがとさん」  杏奈を見つめる、淡いブラウンの優しい瞳。  妙な居心地の悪さを覚え、照れ隠しに腕時計を見れば、お昼休み終了まで残りあとわずか。 「すみませんっ、私もう戻らないとっ!」  寝過ごした朝に、心地の良い微睡みから一気に覚醒したような感覚で、杏奈は慌ててバッグを手に立ち上がる。 「では、失礼しますっ」  真咲に軽く頭を下げ、杏奈は駆けだした。 「午後も頑張りや~、主任さんっ!」  後ろから、真咲の声が追いかけてくる。 (はい、頑張ります!)  心の中で、杏奈は真咲に応える。  実際のところ、午前中よりも断然、やる気が漲っているような気がする。 「今日も店で待っとるで~!」  会社まで走りながら、杏奈は小さく笑った。
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