苦い記憶

1/1
前へ
/24ページ
次へ

苦い記憶

「あっ……」  髪留めで束ねた髪を留めようとしていた杏奈は、パンッという嫌な音と共に手から何かが零れ落ちた感覚に、慌てて振り向いて下を見た。思ったとおり、床に落ちてしまった髪留めは金具が外れており、使えるような状態ではない。 (どうしよう……)  それは、アンティーク調の髪留めで、中央に大きく綺麗なラピスラズリが嵌め込まれ、周りに小さなムーンストーンがちりばめられた、杏奈にとってはお守りのような大切なもの。贈り主と会う時はもちろん毎回付けていたし、仕事やプライベートで辛い時にも、お守り代わりに付けていた。 (同じものは、無いよね……でも)  壊れてしまった髪留めを小さな袋に入れて鞄にしまう。  他部署の苦手な担当者とのミーティングがあるため、今日はできれば身に着けて行きたいとは思ったものの、壊れてしまったものは仕方が無い。  会社帰りに雑貨屋で同じような髪留めを探してみようと心に決め、杏奈は鞄を手に会社へと向かった。  会社と駅を結ぶ大通りから少し脇道に入った所。こぢんまりとした、雑貨屋。  そこは、少し変わったオーナーのいる、杏奈の行きつけの店。 「こんばんは」  なんとかミーティングを乗り切り、仕事終わりにいつものように店へと入った杏奈は、すぐに先客に気付いた。年配のその女性は、ただ店内を見て回っているのではなく、必死に何かを探している様子。  思わず杏奈が声をかけようとした一瞬先に、真咲から声がかかった。 「お客さん、何やお探しものですか?」 「ああ、あなた、お店の方?」  ホッとしたような表情を浮かべ、女性は真咲へ手に持っていたものを差し出して見せる。 「これと同じ物、無いかしら?」  杏奈のいる場所からは、女性が手にしているものは見えない。  そっと、見える位置まで場所を移動すると、それは少し大きめの飾りボタンであることが分かった。 「ん~……せやなぁ。これと同じもんは、残念ながら置いてへんけど……」  真咲の言葉に、女性はあからさまに落胆した表情を見せる。 「お客さん、これ、何のボタンです?」 「これはね、孫が入学式に着て行くって言っている、お気に入りのワンピースのボタンなの。いつのまにかひとつ取れて無くなってしまったみたいで……ボタンが無いとイヤだって。でも、そのワンピースを着て入学式に出たいんだって、泣いてきかないのよ」  困ったわ……と、女性は途方に暮れたように溜息を吐いた。 (可哀想に……)  女性の気持ちも、女性の孫の気持ちも何となく分かるような気がして、杏奈まで思わず溜息を吐いてしまう。  だが。 「仕方ないから、もうちょっと他のお店を探してみます」  ありがとう、とその場を離れようとした女性に、真咲は声を掛けた。 「お客さん、そのワンピースの写真て、今あります?」 「え?えぇ、ありますけど」  真咲の言葉に、女性は鞄の中からスマホを取り出し、真咲に見せる。 「このワンピースの、ここ、襟のところの」 「ん~……」  女性からスマホを受け取り、画面の拡大・縮小を繰り返して暫く真剣にスマホを眺めていた真咲だったが、 「あれなら……」  と小さく呟くと、一旦店の奥へと姿を消し、すぐに戻ってきた。 「同じもんやないけど、これじゃあかんやろか?」  真咲が手にしていたのは、可愛らしい二つの飾りボタン。  確かに、女性が探していたものとは異なるものの、可愛らしさでは負けていないと、杏奈は思った。 「あら、素敵ねぇ」  真咲からボタンを受け取り、スマホの画面と見比べていた女性の顔が、嬉しそうに綻ぶ。 「じゃあ、これをいただくわ。このワンピースにもピッタリだし、これならきっと孫も気に入ると思う」  杏奈の場所からスマホのワンピースまでは確認はできないが、女性の様子から察するに、きっと本当にデザイン的にもピッタリなのだろう。女性はそのままボタンを購入し、何度も真咲に礼を言って店を後にした。 「いらっしゃい、主任さん。放っておいてしもて、堪忍な」  女性の相手をしながらも、真咲は杏奈の来店に気付いていたらしい。  女性が店を出るとすぐ、杏奈に声を掛けてきた。 「良かったですね、あの方」 「せやな」  そう言って頷く真咲が、杏奈には何故だか眩しく感じた。  いつもと同じように、杏奈には理解できないセンスの服を身にまとっているというのに。時々、驚くほど急に距離を詰めてくる、油断ならない人だというのに。 (でも本当は、すごい人……なのかも?)  気付かぬうちに、杏奈はじっと真咲を見つめていたらしい。 「なんや、主任さん。いややなぁ、そないに見つめられたら、恥ずかしなるやんか」 「えっ、あ、すみません……」  言われて我に返り、杏奈は慌てて視線を逸らす。 「もしかして、俺に見とれてたん?」 「違います」 「……せやろな。でもそないにはっきり言わんでも」  言いながら、真咲は苦笑を浮かべる。 「ま、今日も息抜きに来てくれたんやろ?新商品も入ってるし、ゆっくり見てってや」  杏奈に背中を向け、真咲は店の奥へと向かう。 (この人なら、もしかしたら……)  杏奈は鞄の中から、壊れた髪留めの入った小さな袋を取り出し、真咲の背中に声をかけた。 「あのっ!」 「ん?」  その場で真咲が振り返る。 「私も実は、探し物がありまして」 「なんや、今日は探し物のお客さんが多いなぁ」  真咲の元へと向かいながら、杏奈は袋から髪留めを取り出し、真咲へと手渡す。 「これ、なのですが」 「ええもんやなぁ、これ」  手に取るなり、真咲は感心したようにその髪留めを色々な角度から眺め始めた。 「この大きい石、ラピスラズリやろ?めっちゃキレイやし。デザインもええ感じやし。ああ、ここが壊れてしもたんやなぁ」 「ええ。とても大切なものなのですが……もし同じようなものがあれば」 「同じもんは、さすがに無いけど」  真咲の即答に、杏奈は小さく息を吐く。  予想はしていた答えだった。  だが、それからもしばらく時間をかけて髪留めを眺めていた真咲が、ひとつ小さく頷くと、杏奈に告げた。 「これなら、直せるわ。ちょっと、待っとってくれる?」 「あっ、はい!」  杏奈をその場に残すと、真咲は店の奥から何やら工具を持ち出し、レジ横の台に並べ始める。  そして、そのうちの1つを手に取り、髪留めの留め具部分の部品を外し始めた。杏奈もレジの前に立ち、真咲の作業をじっと見守る。 「大切なもんやて、言うてたな。どないしたん?誰かに貰たんか?」 「はい」  一瞬、真咲の手が止まる。 「それって……男?」 「えぇ、そうです」 「……今でも、続いてるんか?」 「えぇ、まぁ」  手を止めたまま、真咲は無言で杏奈を見つめた。驚きと落胆が入り混じったような表情で。  訳が分からず首をかしげる杏奈の前で、真咲はふぅっと大きな息を吐き、小さく笑うと、再び手を動かし始めた。 「そうかぁ……主任さん、恋人おったんかぁ」  今度は、杏奈の表情が固まった。 (恋人?この人は一体、何を……) 「は?」  思わず、杏奈の口から呆けた声が漏れ出る。 「せやかて、今でも続いてるんやろ?」 「えぇ。兄ですから」  再び手を止めて顔を上げ、真咲は不可解な表情を浮かべる杏奈を見つめた。 「……お兄さん?」 「はい」 「主任さんの?」 「えぇ、そうです」  当然のように答え、杏奈は続ける。 「兄は私の雑貨好きを知っているので、たまに買ってきてくれるのです。ただ、兄自身は雑貨にあまり興味が無いせいか、残念ながら私の好みとは少々異なる物も多く、困ってしまうこともあるのですが。ですが、これは特別なものなのです。私を、助けてくれたものでもあります。お守りのようなものですし、兄と会う時は喜ぶのでいつも付けていくのです。ですので、とても大切なものなのです」 「そやったんか」  真咲の顔に安堵の表情が浮かぶ。  気を取り直したように、再び作業に取り掛かりながら、真咲は言った。 「でもほんま、心臓に悪いわ。主任さん、天然なんか?」 「何のことですか?」 「普通、『男』言うたら、彼氏のことやんか」 「か、彼氏っ?!そっ、そんな人、私にいるわけ……」  一気に頬が熱を持ったように感じた杏奈だったが、ふと昔の思い出が頭をよぎり、一瞬にして熱が冷めた。  できれば二度と思い出したくなかった、苦い思い出。  『君は真面目すぎて、つまらないんだ。別れよう』  杏奈を傷つけた言葉が、何故だか鮮明に蘇り、頭のなかに響き渡る。 「……私みたいなつまらない人間に、彼氏なんているわけ、ないじゃないですか」 (どうして今頃になってこんな・・・・)  小さく頭を振ってはみたものの、壊れた音源のように、同じ言葉が何度も繰り返し頭の中に響き、溜まらずに杏奈は目を閉じる。 「つまらない人間?主任さんが?」  いつもより硬質な声に、閉じた目を開くと、真咲がじっと杏奈を見つめていた。 「誰や?誰がそないなこと言うたん?」 「いえ、あの……」  今まで聞いたことの無いような真咲の低い声。  思わず後ずさりする杏奈の腕をつかみ、真咲はもう一度、ゆっくりと言った。 「誰に、言われたんや?」  いつも優しさを湛えている淡いブラウンの瞳は、何故だか怒りを孕んでいるいるように思える。  その瞳で、杏奈の心の内まで見透かされてしまいそうで。 「離してっ!」  思わず真咲の手を振り払い、杏奈はそのまま店を飛び出した。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加