優しい時間

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優しい時間

 会社と駅を結ぶ大通りから少し脇道に入った所。こぢんまりとした、雑貨屋。  そこは、少し変わったオーナーのいる、杏奈の行きつけの店。  だったのだが。  気まずい別れ方をしたあの日以来、杏奈はずっと、店に行くことができずにいた。  真咲に謝りたい気持ちももちろんあるし、髪飾りも預けたままだ。だが、何度も近くまで寄ってはみたものの、あと一歩が踏み出せず、そのまま帰宅する日が続いていた。  そんなある日の週末。  杏奈のスマホからコールを告げる着信音が鳴り始めた。  発信者名は『雑貨屋さん』。  少し躊躇ったのち、杏奈は『応答』ボタンを押した。 「もしもし」  ”あー、主任さん?悪いなぁ、休日に。今、ちょっとええか?”  緊張しながら電話に出た杏奈だったが、いつもと変わらぬ真咲の口調に、少しだけ緊張が解れた気がした。 「はい。大丈夫です」  ”良かった。なぁ、明日仕事休みやろ?なんや予定、ある?” 「いえ、特には」  ”ほな、また『店内デート』、せえへん?” 「えっ?」  思いもかけない真咲の言葉に、杏奈はしばしその場で固まった。  先日の事で何か聞かれるのではないかと覚悟をしていたのに、『店内デート』のお誘いとは。  ”実はな、ここ数日店閉めて、仕入れに行っとってん。でな、今日これから色々配置変えて、明日の夕方からまた店開けよ思てるんやけど、その前に主任さんに見て貰いたいな~って思て。なぁ、あかん?”  主任さんの好きそうなもんも、色々あるで~、と。  真咲は楽しそうな声で杏奈を誘う。  まるで、先日の事など無かったかのように。  真咲の優しさが胸に染み渡るようで、杏奈は鼻の奥にツンとした痛みを感じた。  それは、涙が零れる、一歩手前の感覚。 「ありがとうございます。では、お邪魔します」  涙声になる前に、それだけ言うのが精一杯で。  ”ほんま?!良かった~!ほな、俺朝から店おるから、主任さんは好きな時間に来たらええわ。楽しみに待っとるで!” 「はい」  涙声を気付かれないように小さく答え、杏奈は通話を終えた。  翌日。  朝早くから起き、杏奈は久しぶりに弁当を作った。  入社したての頃は頑張って自作弁当を持参していたものの、ここ最近はすっかりコンビニ弁当で済ませる事が多くなっている。  そして何より、自分以外の誰かの為に作る弁当など、まだ中学や高校生の頃に、気まぐれに家族用に作ったことしか無い。 (何にしたら、いいんだろうか。あまり凝ったものは、作れないし)  冷蔵庫の中の在庫を確認し、さんざん悩んだ挙句に、杏奈はロールサンドイッチを作ることにした。ロールサンドイッチならば、片手で食べる事もできるし、手を汚すことも、食べこぼして店を汚してしまう恐れも少ない。 (そういえば、好き嫌い、聞いてない)  再び悩んだ挙句、万人受けすると思われる具材をチョイスし、完成したロールサンドイッチを持参して、杏奈は真咲の待つ店へと向かった。 「いらっしゃい、主任さん。待ってたで」  閉じられたままの店の扉を恐る恐る開けると、中から真咲の笑顔が杏奈を出迎えた。真咲の笑顔にホッとはしたものの、杏奈の中にはまだ、先日の気まずい別れ方を引きずった若干の緊張は残っている。 「あの……おはようございます。今日はありがとうございま」 「あ~もう、固いのやめ言うたやろ?ほら、早よ入り」  杏奈の緊張に気付いているのか、いないのか。  いつもと何も変わらない真咲の態度に、杏奈はやっと緊張を解いた。 「はい、お邪魔します」  そして、一歩足を踏み入れ…… 「わぁ……」  店のレイアウトが変わっていたせいか、また別の夢の場所を訪れたような感覚で、杏奈は誘われるように店の中へと進んだ。  今までに何度も見ている物もあったが、真咲の言ったとおり初めましての物も多く、杏奈はつい、目についたものを見つけてはその場に立ち止まり、新入荷の品の堪能を始める。 (すごい、いつの間にこんな……)  ワクワクする気持ちが、抑えきれない。  だが、場所移動しようと振り返った杏奈は、ふと真咲が壁に背を預け、目を細めて自分を見ている事に気付いた。 (はっ!私としたことがっ!)  正直なところ、夢中になり過ぎていた杏奈は、真咲の存在をすっかり忘れていた。 「ごめんなさいっ!わたし、つい……」 「何で謝るん?」 「だって、今日はせっかく誘っていただいたのに……」 「そや。主任さんの笑顔が見たいから、来てもろたんや。せやから俺は、満足しとる。何も謝ること、無いやろ?」  真咲はそう言って、笑った。 「それにな。前にも言うたけど、主任さんはこの店のもん見て、癒される。俺は、この店のもん見て癒される主任さんを見て、癒される。それが、俺にとって最高の『店内デート』なんや」  真咲の口調は、あくまでも穏やかで、優しい。 (なぜこの人はこんなに……)  杏奈の胸に温かな気持ちが溢れてくると同時に、鼻の奥に感じるツンとした痛み。  なんとか堪えてやり過ごそうとした時、真咲の腹が盛大に鳴った。  思わず顔を見合わせ、2人同時に噴き出す。 「そろそろ腹も減ってきたし。なんや食べに行こか?」 「それでしたら、サンドイッチ作ってきました」 「えっ!ほんまっ?!」  杏奈が差し出したバスケットを、真咲は目を輝かせながら受け取る。 「ほな、コーヒー入れてくるわ。レジのとこでちょい待っとって!」  言われるままにレジの前に行くと、可愛らしい椅子が一脚置かれている。  杏奈はその椅子に腰かけ、真咲を待った。 「ほな、いただきます!」 「お口に合えばいいのですが。」  満面の笑みを浮かべ、真咲はロールサンドイッチを頬張る。 「うまいっ!主任さん、天才ちゃう?!」 「大袈裟です。ただのロールサンドです」 「あ~……幸せや~!」  レジ台を挟んで向かい合い、2人で食べるロールサンドイッチ。  先日の失礼を詫びるのは今しかないと思い、杏奈が口を開きかけた時。  一瞬早く、真咲が口を開いた。 「でもなぁ手ね…俺、未だに主任さんに名前教えてもろてないねん」 「……はぁ」  出鼻を挫かれた形になり、気の抜けた返事をした杏奈に、真咲は言った。 「こうして『店内デート』する仲なんやし、もうそろそろ名前教えてくれてもええんちゃうの?杏奈ちゃん」 「そうですね……え?」 (今、私の名前……)  ぼんやりと聞いていた杏奈ではあったが、最後の言葉に強烈な違和感を覚えた。  杏奈を下の名前で呼ぶ人は、ごく限られている。そして、最近では滅多に、下の名前では呼ばれていない。 (今確かに、私の名前を呼んでいた……) 「ん?」 「今、なんて?」 「せやから、もうそろそろ名前教えてくれてもええんちゃうかって」 「その後です」 「その後?……あっ」  はっとしたように、真咲が口元を抑える。 「いや~、あの、これは……」 「誰から聞いたのですか?」 「それは、守秘義務やし……」 「私の、個人情報です」 「……ほんま、すんませんっ!」  観念したように、真咲は両手を合わせて頭を下げた。聞けば、たまに顔を出すという杏奈の後輩から、それとなく聞き出したらしい。 「あの子のこと、怒らんといてな?俺が、知っとるけど忘れたテイで、聞き出したんや」 「別に、こんなことでは怒りません」 「そか、良かった~」  ほっとした表情を浮かべながらも、真咲は小さく呟く。 「ほんまは主任さんの口から直接教えて貰いたかったんやけどな」  奇遇にも、杏奈も同じ事を感じていた。 (私も、自分でお伝えしたかったです)  だが口には出さず、自分の胸の内にしまい込む。 「でもほら、スマホの登録はまだ、『主任さん』やで?これ、『杏奈ちゃん』に変えよかな」 「『主任さん』のままがいいいと思います」 「なんでやー!」 「わたしも、『雑貨屋さん』で登録していますから」 「……ほんま、つれない人やなぁ……」  がっくりと肩を落とす真咲に、杏奈は小さく笑った。  夕方近く。  店を開ける時間も近づいてきたため、帰り支度を始める杏奈に、真咲が薄紙に包まれたものを差し出してきた。 「なんですか?」 「このあいだの、預かりもんや」 「あっ……」  そっと薄紙を開くと、そこにはあの髪飾りがあった。壊れていた箇所は、きちんと直されている。 「こないだは、ほんま、堪忍な」 「え?」  きまり悪そうな顔で、真咲は杏奈に頭を下げた。 「話したない事なんて、誰にかてあるやんなぁ。そやのに俺、つい頭にきてもうて。ほんま、無神経やったわ」  本来であれば、杏奈の方が謝る側だ。杏奈はそう思っていた。あのような失礼な態度を取ってしまったのだから。  だが、真咲は頭を上げて杏奈をまっすぐに見つめ、言葉を続ける。 「でも、これだけは言わせてもらうで。杏奈ちゃんは、つまらん人間なんかや無い。俺にとっては、めっちゃおもろい人や」 「おもしろい?私が?」 「そや。全然反応が読めへんから、次はどないな顔見せてくれるんやろか~って、いつも楽しみでしゃーない。そないな人が、つまらん人間な訳、ないやろ?」  完全に、真咲への謝罪の機会を逸してしまった。  しかも、さらに驚くことに、真咲は杏奈を傷つけたあの言葉を、全否定してのけている。 (あなたって人は……)  またもや感じる、鼻の奥のツンとした痛み。  しばらくの間無言で真咲を見つめた後、杏奈は言った。 「やはり、私にはあなたが理解できません」 「ちょお、杏奈ちゃん!そりゃないで……」 「でも、そのように言ってもらえて、嬉しいです」  杏奈の目に、涙が滲む。 「すごく、嬉しいです。ありがとうございます、雑貨屋さん」 「いやいやいや、そこは是非『真咲さん』で頼むわ!」 「そうですね」  ちょっと笑って涙をふき、杏奈はもう一度真咲を見て、言った。 「ありがとうございます、真咲さん」
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