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やはり、恋?
会社と駅を結ぶ大通りから少し脇道に入った所。こぢんまりとした、雑貨屋。
そこは、少し変わったオーナーのいる、杏奈の行きつけの店。
なのだが。
(今日も閉まってる……)
ここ数日、雑貨屋の扉は閉ざされたままだった。
この雑貨屋には定休日は無く、真咲の都合で休んでいるようではあるが、最近では休む日が決まると、真咲は杏奈に連絡をくれるようになっていた。
だが、今回は、連絡は無い。
突然休む時だってあるだろうと、2日ほどは様子を見ていたものの、さすがに3日目の今日も閉まったままの扉を前に、杏奈は不安を抱き始めていた。
今まで杏奈から真咲へ連絡をしたことはなかったが、意を決して鞄からスマホを取り出し、真咲へ電話をかける。
だが。
数回の呼び出し音の後、留守番電話に切り替わってしまい、杏奈は諦めてスマホを鞄にしまい、ため息をついた。
(なにかあった、とかじゃ、ないですよね?)
不安は、悪い想像をばかりを頭の中に描き出す。
(事故にあった、とか)
ドンピシャのタイミングで遠くから救急車のサイレンが聴こえ、心臓がドクンと大きく跳ねる。
(重病で入院している、とか)
サイレンが徐々に近づき……そのまま遠ざかる。
何故だか少しだけ緊張が緩んだ瞬間。
(……もしかして私、避けられてる?)
掌にじんわりとしたイヤな汗を感じ、杏奈はハンカチを握りしめた。
汗はかいているのに、驚くほどに手先は冷たくなっている。
(避けられて……る……?)
脳裏に浮かんだのは、優しい笑みを浮かべる淡いブラウンの瞳。
「そうだ」
小さく呟くと、杏奈は大通りに向かって走り出した。
「あら、杏奈ちゃん。いらっしゃい!」
真咲と同じ、淡いブラウンの瞳を持つ玲美が杏奈を迎え入れる。
朱鳥に店を教えてもらってから、杏奈はたまに1人でもこのビア・バーを訪れるようになっていた。
「玲美さん、こんばんは」
「お好きな席にどうぞ。今日もヒューガルデン?」
「はい」
頷いて、カウンターの端の席に腰掛けながら、杏奈は玲美の様子を窺う。
もしかしたら、玲美は事情を知っているかもしれない。
そう考えて店を訪れてはみたものの、もし真咲が自分を避けているのだとしたら……そう思うとなかなか勇気が出ずに、杏奈はしばらくの間、1人静かにヒューガルデンを味わっていた。だが、美味しいはずのヒューガルデンが、今日はいつもよりも苦く感じられ、なかな喉を通らない。
(もし、避けられているのだとしたら……)
「真咲のこと、聞きにきたんでしょ」
いつの間にか、思考の中に沈みこんでいたらしい。
ふいに、カウンター越しに玲美に話しかけられ、驚いてグラスを倒しそうになり、杏奈は慌てて傾きかけたグラスを押さえた。
「やっぱり……そうよね。そろそろ来る頃かなとは、思ってたのよ」
玲美の問いに答えたわけでは無かったが、杏奈の慌てようで察したのだろう。玲美は苦笑を浮かべて杏奈を見ている。
「あの、真咲さんは……」
「ごめんね、杏奈ちゃん」
言いかけた杏奈の言葉を遮るように、玲美は頭を下げた。
「えっ……」
玲美の思わぬ行動に、杏奈に緊張が走る。
(玲美さんが謝ると言うことは……)
目の前の玲美の姿が、遠くに感じる。
(やはり、真咲さんは私のことを……)
杏奈が再び思考の中に沈み始めた時。
「だから言ったのよ。言わないと余計に杏奈ちゃんを心配させる、って」
あの、バカっ!
と。
玲美が怒気を露にして、言葉を吐き出した。
「……えっ?」
とまどう杏奈に、玲美は申し訳なさそうに話し始める。
「実はあの子、風邪こじらせちゃったみたいでずっと寝込んでたのよ。もうだいぶ良くはなったんだけど。お店ずっと閉まってたら杏奈ちゃんが心配するから連絡くらいしなさいって、言ったのに……余計な心配させたくないって。私にも、杏奈ちゃんに言うなって、口止めしてたの。ほんと、アホよねぇ、あの子。かえって余計な心配させて」
本当にごめんね、と。
玲美は再度杏奈に頭を下げかけ、
「やだっ、杏奈ちゃん、泣かないで!」
慌ててカウンターから出てきて、宥めるように杏奈の背中をさする。
「えっ……あ……」
気づかぬうちに、杏奈の頬には涙が伝い落ちていた。
(なんで……)
「まったく、こんなにいい子を泣かせるなんて!真咲には、私がガッツリ言っておいてあげるから。だから、そんなに泣かないで、杏奈ちゃん」
背中をさする玲美の手の温かさが心地よい。
不安と心配、緊張から解放されたせいか、その後しばらくの間杏奈の涙はなかなか止まらず、玲美だけではなく杏奈自信をも戸惑わせたのだった。
『週末にはお店開けられると思うよ』
玲美の読み通り、次の土曜日、杏奈のお気に入りの雑貨屋は、久しぶりに扉を開けていた。
玲美には、自分の思いは直接伝えるからと、真咲には何も言わないようお願いをしてある。だから、今日杏奈がここへ来ることも、きっと真咲は知らないはずだ。
ゆっくりと近づき、入り口の前に杏奈は立った。
手には、いつもの鞄と、ジャーポットの入った紙袋。
ジャーポットの中には、前日の金曜日の仕事帰りに食材を買い込み、今朝早くからじっくり煮込んだポトフが入っている。
全ての具材が柔らかくなるまで煮込んだポトフ。
病み上がりの体でも、負担をかけずに栄養が取れるように。
真咲が早く、元気になるように。
杏奈の鞄の中から、コールを知らせる着信音が聞こえてきた。
しばらく鳴り続けた後、着信音は止まった。
金曜日の夜から、杏奈のスマホには何度も着信があった。すべて、『雑貨屋さん』からだ。おそらく、この電話も『雑貨屋さん』からだろう。
だが、杏奈は敢えて、出なかった。出れば、まだ整理の出来ていない自分の感情を全て、真咲にぶつけてしまいそうだったから。
話すなら、顔を見てから。
そう、決めていた。
「あれっ?!杏奈ちゃんやないかいっ!」
店の掃除をしていたのだろう、ハンディモップを手にした真咲が入口に姿を見せた。
いつもの優しい笑顔を浮かべてはいるものの、目の下にはうっすらとクマが浮かび、頬は明らかに痩け、全体的にほっそりとした感じを受ける。
「昨日からずっと電話しとったんやで?なんやあったんかて、心配しとったんやけど……元気そうやな、良かった」
(私の心配はするのに……私には、あなたの心配もさせてくれないのですか)
真咲の言葉に、落ち着かせていたはずの杏奈の感情が、ざわつき始める。
「すみません、手が離せなかったもので」
でき得る限り感情を殺して短く答え、
「中に入っても構いませんか?」
尋ねる杏奈に、真咲は笑顔で大きく頷いた。
「当たり前やん!さ、入って入って!」
店が閉まっていた期間は、1週間ほど。
1週間と言えば、それほど長い期間でもない。
だが、杏奈にとっては長い時間に感じた。
店に足を踏み入れたとたんに、泣きたくなるような懐かしさを感じるほどに。
「長いこと店閉めてもうて、堪忍やで。仕入れ先でえらい手間取ってもうてなぁ」
いやぁ、参ったわ、と。
真咲は苦笑を浮かべる。
(嘘つき、ですね)
杏奈を心配させないための嘘だということは、もちろんわかっていた。だが、それでも、沸き起こってきた怒りをどうしても抑えることができず。
黙ったまま、手にした紙袋を真咲に押し付けるように渡すと、杏奈はそのまま真咲に背を向けて、店を出た。
「えっ、ちょっ……杏奈ちゃん?!」
後ろから追いかけてくる真咲の戸惑ったような声にも構うことなく、怒りに任せて杏奈は足早に駅へと向かう。
真咲にしてみれば、理不尽な怒りだということは自覚していた。
体調不良を隠しているのは、真咲の優しさだ。
だが。
(私は、本当のことを教えてほしかったです……私にだって、あなたの心配くらい、させて欲しい)
怒りのぶつけ先は、どこにもない。
人通りの少ない大通りで立ち止まり、杏奈は唇をかみしめた。
(私のわがまま、でしょうか……)
テーブルの上。
初めての『店内デート』の際に、真咲からお礼にとプレゼントされた起き上がりこぼしを、指でつつく。
杏奈は別に、真咲を責めるために会いに行ったのではない。
真咲の体調が気になっていたから、元気な顔を見たかったから。
それなのに、明らかに病み上がりの顔でなお、体調不良を隠す真咲に、どうしても怒りが抑えきれなかった。
つつく度に起き上がりこぼしの中から響くきれいな音は、杏奈の問いを肯定しているようにも聞こえるし、否定しているようにも聞こえて、八つ当たりのように何度もつついていると、突然スマホからコールを知らせる着信音が鳴り出した。
発信者名は、『雑貨屋さん』。
少し迷った後、杏奈は応答ボタンを押した。
”やっと出てくれた”
杏奈が口を開く前に、ホッとしたような真咲の声が聞こえてきた。
”ポトフ、ごちそうさん。めっちゃ優しい味やった。体に染み渡ったわぁ……やっぱり、杏奈ちゃんは天才やな”
「いえ……」
真咲に言いたいことは、いくつもある。
だが、何も言えずに黙っていると、スマホの向こうから小さなため息が聞こえてきた。
”知っとったんやな。俺が寝込んでたこと”
「……はい」
”そか”
再び訪れる、スマホ越しの沈黙。
だが、真咲が電話を切る気配は無い。
杏奈が自分から話すのを待ってくれている。
そう感じた杏奈は、思いをそのまま言葉にのせた。
「何故言ってくれなかったのですか?体調を崩していたと」
”そら……カッコ悪いやろ?それに、余計な心配かけたないし”
「十分心配しましたが」
”どんな?”
「どんな、って……」
”知りたいんや。杏奈ちゃんにどないな心配させてしもたんか。隠しとったんも、嘘ついたんも、心配させたなかったからやけど、でも、結果的に心配させてもうたんは、悪いと思っとる。せやから、知りたい。今後のためにも”
スマホ越しの真咲の声は、いつになく真剣だ。
ひとつ深呼吸をはさみ、杏奈は抱えていた悪い想像を、ゆっくり話し始めた。
「事故にでも、遭ったのではないかとか」
”うん”
「大病を患って入院しているのではないかとか」
“うん”
「……」
”あとは?”
「あとは……」
”うん”
「……あなたに、避けられているのでは、ないかと」
言いながら、杏奈は自分が恐れていた最悪の事態はこれだったのだと、思い知らされていた。
「あなたが、どこかへ行ってしまうのではないかと……」
スマホ越しに、真咲のため息が聞こえた。
”俺、怒ってもええかな”
「えっ?」
スマホ越しの真咲の声が、突然低く硬質なものに変わる。
”なんやねん、それ。なんで俺が杏奈ちゃんのこと避けなならんの?一体、どこ行くっちゅうねん。そないなこと、ある訳無いやろ!”
そして、短い吐息の後、弱々しい声でこう続ける。
”俺、まだそないに信用されてへんのかな……”
「違います!」
杏奈は慌てて真咲の言葉を遮った。
真咲は本気で怒っていた。
それはすなわち。
(真咲さんを、傷つけてしまった……)
後悔の念が押し寄せてくる。
今までの真咲を思えば、突然自分を避けるようなことはしないはずだ。自分に自信がなかったから、と言うのは、結局のところ言い訳にしかならないだろう。
傷つきたくないがために、真咲を信用できずにいたのは、他ならぬ自分。結果、いらぬ心配をした挙げ句に、真咲を傷つけた。
「ごめんなさい……」
素直な気持ちで、謝罪の言葉が自然と口から出ていた。
「あなたがそんなことをするはず、無いのに」
”謝らんといて”
真咲の言葉が杏奈を優しく包みこみ、スマホ越しでも、真咲の優しい笑顔が見えるような気がする。
”杏奈ちゃんは、悪ない。悪いのは、俺や。堪忍な”
「いえ、そんなこと……」
”そないな心配をさせてまうっちゅーことは、まだまだ俺の努力が足りひんちゅーことやんな”
「えっ?」
”よっしゃ!頑張るで~!”
最後はいつも通りの明るい口調で、真咲は言った。
”ほな早速やけど、ポトフのお礼に、デートせえへん?”
「は?」
”『店内デート』ちゃうで?杏奈ちゃんにめっちゃ楽しいデートのプレゼントや!”
話は思わぬ方向に転び、次の休日の待ち合わせを決めて、杏奈は真咲との通話を終えたのだった。
(私は何故あんなに怒っていたのだろう)
真咲との通話を終えた後、テーブルの上の起き上がりこぼしを軽くつつきながら、杏奈は考えていた。
(何故あんなに、怖かったのかな)
何故?の答えなど、もう、とっくに分かっている。
「恋、かな……」
起き上がりこぼしが、杏奈の目の前で、肯定するように何度も頷いた。
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