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しかし、日が経つにつれサツキの噂は知れ渡っていった。相手は遠い街で有名な豪家の出身で、この町の誰もが足元にも及ばない、高い地位と金を有していた。サツキは一生遊んで暮らせるだろうと、町の人々は口にした。式の日取りまで、既に決まっているらしい。シオはやきもきしつつ日々を過ごした。
その日、夜が周囲を包む時分、ドアが激しく叩かれた。バクと出かける準備をしていたシオが慌てて扉を開けると、転がるようにサツキが入って来た。彼女の顔はすっかり泣き腫らしていた。
「サツキ、何があったの」
床にしゃがみ込む彼女の前で膝をつき、シオはその両肩に手をやった。サツキは尚もしゃくり上げ、涙を流している。バクもそばにやって来て、心配そうに彼女を見上げた。
「父さまは、やっぱり悪い人だった……」
彼女はなんとかそう絞り出し、再び嗚咽を漏らす。
シオはその背を撫でて宥め、ようやく涙が止まった頃に、椅子に座るよう促した。温めたミルクをマグカップに注ぎ、テーブルに置く。ハンカチを手渡すと、彼女は時折嗚咽を零しつつも、濡れた目元を拭った。
「サツキさま……大丈夫ですか」
テーブルの上でバクが尋ねると、彼女はようやく微笑み、ありがとうと囁いた。サツキは父たちの身勝手さに戸惑いながらも、どうにか結婚を回避する方法を模索していたらしい。そこで、父と喧嘩になったと言った。
「礼を知らないと言われたの。シオの絵を売ってあげてたことを忘れたのかって。でも、父さまだって、それで利益を得ていたわけでしょう? それで、知らされたの」
「知らされたって、なにを」
サツキはハンカチを両手で握りしめ、隣に座るシオを見つめた。
「ごめんなさい、私、何も知らなかった。父さまはシオの絵を、他の人の絵だと嘘を吐いて売っていたの」
思いがけない告白に、シオも言葉を失ってしまう。
「ある有名な方と取引きをして、その人が描いた絵だと、お客を騙していたの。名前の売れた人の絵だと、より高く売れるからって」
そして知らされた金額は、シオに手渡される額の十倍に及んでいた。つまり、シオの描いた絵で儲けた金を、サツキの父親はほとんど自分の懐にしまっていたことになる。確かに、無名の少年が描いた絵よりは、著名な人物の絵である方が儲けは大きいだろう。シオには、全く予想だにしない話だった。
「でも、私があの人と結婚したら、もうシオの絵には用がないって。だから金輪際近づくなって」
思い出したのか、サツキの目に再びじわりと涙が浮かぶ。
「それで……それで、父さまはあの絵を破ったの。シオが私に描いてくれた夜空の絵。私の目の前で破って、暖炉にくべてしまった」
サツキはシオに抱き着き、ごめんなさいと泣きじゃくった。止められなかったことを心から悔いていた。彼女の懺悔に、シオの心も張り裂けそうだった。
「絵なんて、また描けばいいよ」
その背を、シオは優しく撫でる。
「でも、あの絵は一枚きりだった。私、大好きだったのに」
そう言ってくれるのが、シオには堪らなく嬉しかった。いくら似せようとも、全く同じ絵を描くことはできない。世界にたった一枚の自分の絵を、サツキは気に入って大事にしてくれていたのだ。彼女の言葉が身に染みた。
同時に、悔しい思いを抱いているのも確かだった。自分の絵をどんなに安く買い叩かれたとしても、シオは全く構わない。絵は時間をかけて、一枚一枚、丁寧に描いている。それでも売れなければ、それは自分の力不足だからだ。
しかし他人の名で売られるというのは、あまりにひどい話だった。シオが絵に費やした時間も努力も、全てなかったことにされるのだ。全ては金と名声のため。自分の描いた絵がそんなものに使われていただなんて、想像さえしなかった。
「ごめんなさい。シオ、ごめんなさい」
「サツキが謝ることなんて、一つもないよ。ぼくの絵を認めてくれるサツキには、心から感謝してる」
「父さまは、私だけでなくシオまで利用していたの。そんなところに、私はもう帰りたくない」
「帰らなければ良いのです」
テーブルの上で、小さなバクがぴょこんと跳ねた。二人の視線の先で、探るように提案する。
「シオさまとサツキさまがよろしければ、この町を離れるのも一計ではないでしょうか。私は多くの街を見てきました。列車の乗り方も心得ております。心許なくお思いでしょうが、微力ながら協力いたしとうございます」
バクの言葉に、でも、とサツキは言い淀んだ。迷いながらシオに顔を向ける。
「ぼくは、いつでも町を出ていける」
彼はきっぱりと言った。
「ぼくがこの町に思い残すのは、サツキだけだよ。それ以外に未練はない」
サツキの唇が微かに戦慄く。彼女には信じられない話だった。親のいないシオより、彼女は遥かに家に縛られて生きてきた。町を捨てるというのは、父もろとも家を捨てるということ。心優しい彼女がすぐに決心できないことは、シオにも容易に想像ができた。誰を騙し悪事を働いていようが、父親は父親なのだ。
戸惑いつつも、サツキはシオの瞳をじっと見つめた。シオも、サツキの濡れた瞳を見つめる。
「本当は、とても辛い。サツキが他の人と一緒になってしまうなんて。それがサツキにとっての幸福なら、まだぼくも救われる。けれど、望まない生活でサツキが苦しむ将来だなんて、ぼくは耐えられない」
「シオ……」
彼女の薄い唇が、確かに彼の名を呼んだ。
「私と、ずっと一緒にいてくれる?」
シオは笑って頷いた。
「もっと早くに言うべきだった。ぼくは、サツキと一緒に生きていたい」
ぽろぽろと涙を零しながら抱き着くサツキを、シオは一度強く抱きしめる。彼女のためなら、惜しいものなど一つもない。腕の中の温もりに、改めて想いを強くする。
腕を解くと、サツキはバクの方を向いて微笑んだ。
「バクもありがとう。あなたのおかげで、今まで思いもしなかったことに気づけたわ。どうか、私たちを助けてね」
「せいいっぱい、お力になります」
バクはそう言って、嬉しそうに鼻を高く上げた。
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