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 すっかり日が暮れた時分、シオは家を出て町に赴いた。規則正しく生活を送る人々はすでに眠りについており、通りには猫の子一匹見当たらない。ぽつぽつと立つ街路灯が橙の温かな光を灯している。 「ここはどうかな」  石畳を歩く足を止め、シオは肩の上にいるバクに問いかけた。正面の小ぢんまりとしたアパートはどの部屋も暗く静まり返っており、二階の角部屋の窓が少しだけ開いている。風を通しているのか、閉め忘れているのか。指先ほどの小さなバクが通り抜けるには十分な隙間だった。 「すぐに戻ってまいります」  バクは肩から飛び立ち、すんなり部屋の中に入っていった。  月の明るい晩だった。今度の絵にはこの月夜を描こうか。夜空を見上げてシオが考えていると、やがてバクは戻ってきた。拳ほどの大きさになり、肩の上にちょこんと乗る。 「とてもおいしゅうございました」  心なしか弾む声を聞きながら、シオは夜道を歩き出す。 「小さな坊ちゃんと、お母さまが眠っておられました」 「うん。そういえば、あの家では赤ちゃんが生まれたんだって聞いたよ」 「子どもの夢は、とても美味です。子どもたちは皆、純粋ですから」 「どんな夢を見ていたの」  肩の上で、バクはゆらゆらと鼻を振る。 「夢の中で、眠っておられました。誰かの声が聞こえましたが、あれはきっと、お母さまの声でしょう。とても温かな空間で、幸福に満ちていました」 「あの子は、大事にされているんだね」 「甘くとろけるような夢でした」  バクは幸せそうに、口をもぐもぐさせる。美味しい夢の余韻に浸っているらしい。 「お母さまの夢は、大変そうでした」 「大変って、どういうこと」 「洗っても洗っても、服の汚れが落ちない夢です。綺麗にしても、目を離した瞬間に汚れてしまうのです。慌てて洗って綺麗にするけど、気づけば泥の汚れがついていて。てんてこまいな夢でした」 「そりゃあ、大変な夢だね」  それから二軒家を周り、シオとバクは家路についた。 「あら、シオ、珍しいわね。いつも午前中に届けてくれるのに」  翌日、すっかり午後の陽気が訪れる頃、シオはサツキの家に絵を届けた。青色の屋根に、珍しい煙突のついた家にサツキは一人で住んでいた。あちこちを飛び回っている父親は滅多に帰らず、数人の手伝いも用事を済ませると帰ってしまう。気楽でいいとかつてサツキは笑った。 「ちょっと寝坊してね。差し支えなかったかな」 「大丈夫よ。それより、遅くまで絵を描いてたんでしょう。駄目よ、ちゃんと休まなくちゃ。シオは絵のことになるとすっかり時間を忘れてしまうんだから」  バクに夢を食べさせていたんだと、シオは言わなかった。他人に存在を言いふらされることを、バクは望んでいないからだ。 「気を付けるよ」  シオが笑うと、「心配してるのに」とサツキは頬を膨らませた。
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