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6
夜空に月と星の浮かぶ絵は描きかけだったが、サツキは大層喜んだ。
「シオの瞳には、こんなに綺麗な景色が見えているのね」
「完成したらサツキにあげようとおもっていたんだけど、どうかな」
そう言うと、彼女の顔はいっそう明るく輝いた。それはシオにとって、いつものアトリエに煌めく一番星のようだった。
「ありがとう、シオ。楽しみにしてるわ」
嬉しそうに笑うサツキと昼食を摂り、散歩に出かけた。二人を穏やかな日差しと長閑な空気が包み込んだ。
サツキと別れて帰ってから、シオはアトリエにこもった。早くサツキに絵を渡したい。喜んでくれる顔を見たい。大切に一筆ずつ色を乗せていく。
ふと自分を呼ぶ声に、シオは気が付いた。既に大きな犬ほどになったバクが、そばに座ってこっちを見つめていた。
「お邪魔をしてごめんなさい。シオさま、もう夜中です。食事を摂らなくても、大丈夫でしょうか」
そこで腹が減っていることをシオはようやく思い出した。絵を描くことに没頭してしまうと、食事を摂ることなど二の次になってしまう。これがサツキに心配をかける所以だった。
「ああ、そういえば、お腹が空いたかも」
「私が準備できればよいのですが……」
悲しそうな目で、バクは自分の前足を見つめる。ずんぐりした足は、料理を作るにはまったく不向きな形をしている。
「気にしないで。気づかせてくれてありがとう」
笑ってバクの頭を撫で、シオは伸びをしながら部屋を出た。一階に下り、キッチンで簡単なスープを作る。
「ごめんね、今日はもう少し絵を描きたいんだ」
「シオさま、私だけで夢を食べてきてよろしいでしょうか」
「ぼくは構わないけど……」スープの味見をしつつ、隣のバクを見下ろす。「一人で、怖くないの」
「おかげさまで、随分元気になりました。心細いのは確かですが、いつまでもシオさまのお手を煩わせてはいけません。少しだけ食べてまいります」
「何かあったら、すぐに戻っておいで。ぼくは二階にいるから」
はいと返事をして、バクはしゅるしゅると小さくなった。シオが窓を開けると、夜のなかへ飛び立っていった。
遅くに眠ったシオが目を覚ますと、すっかり夜は明けていた。ベッドから下り、欠伸をしながらカーテンを開ける。眩しい光が部屋の中に差し込んだ。
「おはようございます」
声のする方を向くと、拳ほどのバクがベッドの足元側で丸くなっていた。「おはよう」と返事をする。
「昨晩は大丈夫だった?」
「はい。三つのお家を回ってまいりました」
部屋を出て顔を洗い、遅い朝食を摂る。バクはまだ二階から下りてこない。食器を片付け、簡単に室内の掃除を済ませ、玄関先を箒で掃く。高台にある小さな家からは、向こうの方にある家々の屋根が見渡せた。心地よい風に、うっかり眠気を誘われてしまう。
家に入ったが、まだバクの姿はない。ポケットを探ってみたが、小さなバクは入っていなかった。少し心配になり、二階の寝室に向かう。バクは、まだベッドの上で小さく丸くなっていた。
「バク、どうしたの。具合でも悪いの」
シオがそばに寄ると、バクは閉じていた瞼をそっと開いた。
「シオさま、心配かけてごめんなさい」
細い声に、シオはその背を軽く撫でる。
「いいよ、気にしなくて。それより、どうしたの」
「……昨晩は、あまりよくない夢を食べてしまいました。お腹の調子が悪うございます。けれどご心配には及びません、少ししたら良くなるでしょう」
バクはそう言った。シオは心配だったが、まさか医者に診せるわけにもいかないし、看病の方法もわからない。目を閉じてしまったバクに柔らかな毛布をかけ、背を撫でてやった。
夕刻になる頃、バクはむくりと起き上がった。
「元気になった?」尋ねるシオに、「はい」と頷いた。道具を運んで寝室で絵を描いていたシオは、ほっとした。
「ご面倒をおかけしました」
「元気ならいいんだ」
バクの様子はすっかり元気そうだ。目も輝きを取り戻している。そばに腰掛け、シオはバクを抱き上げて膝に乗せてやった。頭を撫でると、バクは嬉しそうに尾を揺らす。
「悪い夢を食べると、そんなに体調を崩すんだね」
「前の街にいた時もそうでした。私の周りには、悪い人しかおりませんでした。だから私は、例え誰かが近くで眠ってしまっても、その夢を食べることができなかったのです」
少しバクは黙り、考えるそぶりを見せた後、「シオさま……」と言い辛そうに口を開いた。
「昨日食べてしまったのは、そうした悪い人の夢でした。きっと、シオさまも関わりにならない方が良いかと思います」
バクの言葉に迷いつつも、シオは尋ねる。
「誰の夢を食べて、お腹を壊したの」
「お家の外から夢を食べました。青い屋根の、煙突のあるお家です」
シオがバクを撫でる手が止まった。
「……それは、間違いないの」
声の引きつりに気づいていない様子で、バクははいと頷いた。
「私たちバクの目は、どんな動物より夜目がききます。間違いありません」
何も答えないシオの顔を見て、バクは不思議そうに目をぱちぱちさせる。頭の上にある手がぱたりと落ちるのを見て、不安げにシオを呼ぶ。
「間違いだよ」
シオが囁くように言った。
「それは、見間違いだよ、バク」
「そうは申しましても……」
「間違いだ、そんなのあるはずがない」
煙突を持つ青い屋根の家。それは町に一軒しかない。サツキがたった一人で暮らす家。
「サツキが、悪い人間なはずがない」
その名に、バクも驚いた風だった。バクは、サツキがどの家に暮らしているかを知らない。だからシオに嘘を吐いて彼女を貶めることはできない。それ以前に、バクがサツキを貶める理由がない。
バクは真実を言っているのだ。
「サツキさまのお家なのですか」
シオが頷くと、「サツキさまの夢ではなかったのかもしれません」バクは懸命にそう言った。
「いや」だがシオは首を振る。「サツキはあの家で一人で暮らしているんだ」
沈黙が部屋に満ちた。
サツキが、悪い夢の持ち主であるはずがない。優しく、いつも自分を心配してくれる彼女が、悪人であるなんて信じられない。
「シオさま……」
「ごめん、バク」
シオは、バクをそっとベッドの上に下ろした。もう少しで完成する絵を、黙って片付けた。
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