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 結婚相手は、帰ってきた父親の知り合いだった。サツキにとっては青天の霹靂で、相手も全く見知らぬ人物だった。聞けば、仕事の取引相手の息子だという。彼はサツキをひと目で気に入ったらしいが、サツキには全くその気はなかった。そもそも、知らない相手と一緒になるだなんてあり得ない。そう言って突っぱねたが、この結婚で大きな取引きが一つ決まるらしい。それも半永久的に。そうすれば仕事も安泰となり、食べていくのに困ることはないだろう。  自分が生活をしてこられたのも父の仕事があってこそだ。協力はしなければならない。しかし、だからといってこんな仕打ちはあんまりではないか。 「そうだったんだ」  シオが言うと、サツキはテーブルの向かいの席で頷いた。二人の間には、手つかずのマフィンの載った皿と、ティーカップが二つ置いてある。カップから湯気はすっかり消えていた。 「あの時は、父さまが二人で散歩をしてきなさいって。私は気が進まなかったんだけど、それぐらいならと思って。……だけど、噂の広まるのは早いわね。シオの耳にも入っているとは思わなかった。二人で歩いていたんだから、町の人も信じてしまうわよね」 「サツキは、どうするの」  彼女は冷めたカップをそっと両手で持ち上げ、ミルクティーで喉を潤すと小さく息を吐いた。 「私は、知らない人と結婚するつもりなんてないわ。ううん。何年経っても、あの人とはその気になれない」  コトンとカップをテーブルに置く。 「お金に困ったことがないんでしょうね。あんなに派手な暮らしぶりは、私には出来ないわ。それに、家で父さまと話すのは、決まってお仕事やお金の話。いくら仕事だといっても、二人の下世話な会話が、私には耐えられない」 「いつから、お父さまはお家に帰ってらしたんですか?」  シオのズボンのポケットからぴょこんと飛び出したバクが、あっという間に抱えるほどの大きさになり、テーブルの上に乗った。サツキは驚いて目を真ん丸にする。当然、彼女には見たことのない生き物だ。 「今は、三人でお家にいらっしゃるのでしょうか」 「え、ええ」  困惑しながら、サツキはなんとか頷いた。 「一週間ぐらい前かしら、父さまが帰ってきて、それから三人で」 「シオさま、やはりあの夢は、サツキさまのものではありません!」  短い尾をぶんぶん振りつつ、嬉しそうに弾む声と共にバクはシオを振り向いた。シオは苦笑し、バクを抱き上げて膝に乗せた。そこでバクははっとし、「ごめんなさい」と謝る。 「つい、飛び出してしまいました」 「ううん。ぼくも、悪い夢がサツキのものじゃなくてよかった」 「……その子は、シオのペットなの?」  仲の良さそうなシオとバクを見て、おずおずとサツキが尋ねる。シオは、嵐の夜にバクが家に迷い込んできたこと、夢を食べられること、数日前に悪い夢を食べてしまったことなどを説明した。サツキは興味深そうに聞いていたが、シオが語り終えると席を立ち、彼の膝にいるバクをまじまじと見つめた。 「ご無礼を働きました。私は、バクです。サツキさま」 「とてもお行儀がいいのね」  サツキはそっとバクの頭を撫でる。目を細めるバクを見て、嬉しそうに笑った。 「かわいい子ね。もっと早く紹介してくれたらよかったのに」 「バクを知る人をあまり増やしたくなかったんだ」 「私は誰にも言わないわ」  テーブルにつくと皿からマフィンを一つとり、サツキはバクに勧めた。「初めての食感です」と、バクはもぐもぐと食べた。 「その悪い夢の持ち主……悪い人が、その時私の家にいたってことなのね」 「ごめんなさい。サツキさまの身近な方を悪く言ってしまって」 「いいえ」サツキはにっこり笑った。「あなたには悪意がないもの。本当のことなら、仕方が無いわよ」 「その悪い夢の持ち主が、どっちなのかはわからないけど」  バクが食べたのは、彼女の父親か婚約者の夢だ。そう推測するシオに、サツキは言った。 「もし私でなければ、きっと父さまね」 「どうして」 シオは問いかけたが、「それはいつの夜だったの」とサツキは問い返す。 「確か、五日前の夜だよ」 「父さまは一週間前に帰って来たの。そして、あの人が来たのは三日前。だからその夜は、私と父さましか家にいなかったから」  シオとバクは顔を見合わせる。サツキが悪人でないことは信じている。けれど、彼女の父親が悪い夢の持ち主だと知って、彼女の前で喜ぶわけにもいかない。 「私の夢だったら、恥ずかしいのだけれど」 「そんなことないよ!」思わずシオは語気を強める。「サツキが悪人なはずがない!」  それを聞いて彼女がくすくすと笑うから、にわかに恥ずかしくなってくる。ありがとう、シオ。彼女は礼を言い、シオとバクをじっと見つめた。 「父さまとはいえ、私はそこまで言いなりにならないわ。勝手な結婚の承諾なんてしない。だから今日も、この家に遊びに来たの。私は、あなたたちと一緒にいる方が、ずっと心が休まるの」  いつもと何ら変わりないサツキの姿だった。シオも安堵と共に、彼女へ笑いかけた。
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