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第1話
「くそう、まだ降ってんのかよ。気象制御装置はどうなってんだ?」
行きつけの店リンデンバウムで昼食を摂り終え、合板のドアを開けるなりシドは愚痴を垂れた。続いて出てきた相棒のハイファが気象情報にアクセスし検索結果を読み上げる。
「十時から午前零時まで断続的な大雨を小雨に変更だってサ」
「ンなモン分かってる。梅雨時だしな」
「じゃあ、訊かないでよ。……傘も差せないしねえ」
傍らのシドをハイファは見つめた。
何の雨対策もせずに濡れているこの男は本名をシド=ワカミヤ、若宮志度という。
ラストAD世紀、三千年前の大陸大改造計画以前に存在した旧東洋の島国出身者の末裔である。その特徴は色濃く残り、前髪が長めの艶やかな髪も切れ長の目も黒い。
身に着けているのはラフな綿シャツにコットンパンツで、裾が長めのチャコールグレイのジャケットを羽織っていた。このジャケットは特注品で、四十五口径弾をぶち込まれても余程の至近距離でもなければ打撲程度で済ませる対衝撃ジャケットだ。生地はレーザーの射線もある程度弾くシールドファイバで、命の代償六十万クレジットの品である。外出時には必需品、シドの制服だった。
そんなものを着て歩かなければならないくらい日々がクリティカルなシドだが、いかつい強面という訳ではなく、造作は極めて整っていて男らしくも端正だ。
そして何より嬉しいことに左薬指にはハイファとお揃いのリングが嵌っている。
「お前それ、暑くねぇか?」
シドと違い、ハイファはレインコートでガードしていた。
「そうでもないよ。それより貴方、風邪引かないでよね」
「寒くもねぇのに引かねぇよ」
そぼ降る雨の中、ファイバブロックの道を歩き出しながら、自分に心配げな目を向けてくるハイファをポーカーフェイスながら僅かに笑みを浮かべてシドは見返した。
ハイファ、本名をハイファス=ファサルートいう。
レインコートの下で細く薄い躰を包むのは上品なドレスシャツとソフトスーツだ。タイは締めていない。シャギーを入れた明るい金髪は後ろ髪だけ長く、うなじの辺りで束ねて銀の留め金でしっぽにしている。しっぽの先は腰の辺りまで届いていた。瞳は優しげな若草色だ。
ノーブルな顔立ちは文句なく美人だが正真正銘の男である。
「何、どうしたの?」
「いや、何でこんなことになっちまったかなって」
「こんなことって……僕のこと? まさか急に男は嫌だとか言い出さないよね?」
「え、俺、男は嫌だぞ?」
「何ソレ酷い! 僕だけだって言ったじゃない!」
「ちょ、声がデカい。っつーか、俺は二十三年も完全ヘテロ属性のストレートで生きてきてだな――」
「だってそんな……弄んで捨てる気なの!?」
「だから人聞きの悪いことを叫ぶなって!」
ランチが安くて旨いリンデンバウムはスナックやクラブ、合法ドラッグ店などが建ち並ぶ裏通りの歓楽街にあった。ファストフード店のような喧噪と無縁なのを気に入っているのだ。
夜遊び専門の界隈で真っ昼間の上に梅雨模様とくれば人通りも少ない。だが全く人がいない訳でもなく、今も傘を差した男女のカップルが二人を振り返り眺めていた。
「バディを組んでたった一年半で捨てられるなんて!」
「バカ言うな、人の話は最後まで聴けよ!」
「別れ話なんか聞きたくないよ!」
「違うって! ……こっちだ、来い!」
レインコートの腕を取ると人目を引きずりながらシドはぐいぐい歩き始めた。
裏通りを数十メートル行くと店舗と店舗の間の裂け目のような小径に入る。そこを抜けると表通りで、アパレル関係の店が並ぶこちらは傘の花が満開だ。
主にご婦人方がウィンドウショッピングを愉しむ歩道を横切ってみると、雨のせいか大通りに列を成すコイルがいつもより多いように感じられた。
コイルはAD世紀でいう自動車くらいポピュラーな移動手段だ。形も似ているがタイヤはなく、小型反重力装置を備えていて僅かに地から浮いて走る。殆どの場合座標指定してオートで走らせるもので、目的地に着き停止し接地する際に車底から大型サスペンションスプリングが出るのでコイルと呼ばれるようになったらしい。
そのコイル群がセンサ感知してクラクションを鳴らすのにも構わず、シドはハイファを連れて横断歩道でもない所を突っ切り公園へと足を踏み入れた。
「痛い、離してよ!」
「いいからこっちだ」
雨でも五歳くらいの子供が二人、雨合羽を泥だらけにして砂場と遊具で遊んでいる。子供の母親らしき二人の女性が噴水の横で傘を差して歓談中だ。
それらを横目に人工林の中の遊歩道に向かう。
ようやくシドが足を止めたのは遊歩道の真ん中辺りにあるベンチの前だった。傍に灰皿とオートドリンカが設置されている。
雨が木々の葉を打つ音を耳鳴りのように聞きながら、シドは雨に構わずポケットから煙草を取り出し、一本咥えて引き出すとオイルライターで火を点けた。紫煙とともに溜息をつく。
咥え煙草で左手首に嵌ったリモータを見た。
リモータは現代の高度文明圏に暮らす者にとって必要不可欠なマルチコミュニケータである。現金を持たない現代人の財布でもあり、これがないと飲料一本買えず、自宅にすら入れないという事態に陥るのだ。上流階級者などはこれに装飾を施したり、護身用の麻痺レーザーを搭載していることもあった。
だが今は時間を見ただけ、時刻は十三時十分だった。まだ帰るには早いとみて、シドはリモータをオートドリンカに翳す。省電力モードから息を吹き返した機器を見て少し迷い、保冷ボトルのアイスティーを一本手に入れた。
キャップを開けてひとくち飲んでから、突っ立っているハイファに手渡す。
「これでも飲んで、頭冷やせよ」
素直に受け取ったがハイファの泣きそうな怒り顔はまだ治らない。
ベンチは濡れていて座れず、二人は少々の距離を置いて立っていた。
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