不知火

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不知火

 墓地を出たらフラリと歩く。 「ナメクジくんは、一人で遊びに来たの?」 「うん。」 「お墓によく行くの?」 「うん。」  墓で遊ぶのは関心しないと思われるかもしれないが、家の前の道路しか遊ぶ場所がないと子供に言わせるよりはマシだ。  子供の死亡事故は、いつだってそういった身近な場所で起きる。 「そのお面いいねぇ。あ、そうか。昨日のお祭りで…。花火が上がっていたでしょう。」  何気なく昨日の晩のことを思い出して口にする。  すると少年はきっぱりと首を横に振った。子供の主張ははっきりしている。 「花火なんて見てないよ。でも、シラヌイは見た!」 「しらぬい?」  聞き慣れない単語が出てくる。山の斜面沿いの曲がった道を並んで歩いて、小川にかかる小さな橋まで戻って来た。  橋というか短い道路というか。欄干ではなくガードレールが転落防止に努めており、高さ二メートル程下に細い川が。結構な勢いで流れている。 「空いっぱいに現れるんだ。大きな、白い狐。」  その時、少年の言葉を聞いて確かに電気が体中を流れるような衝撃を感じた。  世界がぐらりと傾く瞬間。太陽が隠れるタイミング。視界がすうっと暗くなる。湿った匂いがする。風が水分を多く含んだ空気を運んで来て、鼻先をかすめていく。 「白い大きな…狐。」  視線は地面に落としている。小川に架かる小さな橋の上に、大人が一人、子供が一人。視界の端に立つ和服の裾と裸足の主は誰だろう。 「君も見たの?」  慎重に慎重を重ねて口にした。一文字目なんかは絞り出すように。そうするとナメクジくんは再び嬉しそうに歯を見せた。彼もゆっくり、慎重にそうした。 「おじさんも、見たの?」  昨夜、風呂の中で聴いた花火の爆ぜるような音。ドンドンというような音だった。その後、二階の窓から見た、巨大な白い煙のようなもの。  それは民家の屋根から立ち上り、空を埋めるほど大きく、四足獣の形をしていた。  忘れていたわけではないが、あれは一体なんだったのだろうと、考えることすら諦めていたのだ。  それが意外なところで、正体が判明する。 「見た見た。おじさんねぇ、もういい歳して、あんなの昨日初めて見たよ。そうか。シラヌイって言うのかぁ。ナメクジくんよく知ってたねぇ。」  どんなに小さなことでも褒めれば子供は喜んでくれる。素直だ。 「前にも見たことがあるんだ。」  そう言って、それからナメクジくんは突然何か思いついたように走り出す。子供の行動は全部急だ。それがデフォルトだと思うしかない。 「シラヌイの居た場所わかるで! 来て来て!」  と言って結構な速さで走り去っていくので、勘弁して欲しい。 「待って待って。おじさんデブだから、ナメクジくんみたいに走れないよ!」  と言うと、川を渡り道の先の曲がり角の手前でなんとか止まって振り返ってくれる。  メタボリックシンドロームに鞭を打つんじゃない。 「シラヌイの居た場所がわかるって、どういうことなんだ。」  とてもあの元気な子供を走って追いかける気にならないので、後ろからゆっくり歩きながら、大声で問いかける。  塀の上から迫り出している大木の枝。木漏れ日がアスファルトの上に揺れる。綺麗だ。  少年はその光の中では、背景が透けて見えた。 「シラヌイが現れるのは、大火の合図なんだ。」  そしてまた走り出してしまう少年の背中を、夢中になって追いかけた。  メダカやザリガニを探していた頃と同じ。純粋な好奇心だった。  火のないところに煙はない。その通りだ。  少年を追って歩くこと二十分程。  実家の周辺よりも明らかに建物が増え、住宅の密集している通りまで来た。ここまで来ると、わずか徒歩数分の先にある大きな下り坂の先に、もう国道が走っている。  足を止めたのは、その中の一軒の住宅前だった。 「燃えたのか…ここ…。」  胸の中がずっと騒がしい。胸の中だけではないかもしれない。耳元でずっと誰かワアワア喋っているような騒々しさだ。  一軒の家が焼け落ちていた。  柱がすっかり黒炭になってしまっていて、壁も床も無い。おそらく元は二階建てだろうということが判る程度の骨組みだけが残り、原型はすでに全く留めていなかった。  消火はすでに済んでいるようで、白い煙も瓦礫から滴る放水の水のようなものも見かけない。  消防車の代わりに荷台の大きいトラックが駆けつけている。動き回る人もおらず、今は閑散とした様子だ。  規制のロープが張られて中には入れないので、道路を一本挟んで反対側の歩道から、その様子を見つめる。  少し視線を遠くへ送れば、この住宅街の向こうに山が見える。一部分だけ剥げた山だ。昔はあんなじゃなかった。  そして、体を半分反らして振り返れば、木々に遮られながらも実家の建物がかろうじて見えている。  あそこの二階から、確かに昨夜、この場所を見ていた。民家の屋根の連なるところ。山の少し手前。 間違いなくこの場所の上空に、昨夜シラヌイが現れていたのだ。 「可哀想にね、まだ新しくて綺麗な家だったのに。」 「これだけ台風で被害が出ているって時に、火事になるなんて。」  噂話が耳に入って視線を送ると、三軒隣で井戸端が発生している。近所の御婦人たちだ。女性が三人で話し込んでいる。 「朝のうちサイレンがウーウー言ってたでしょう。」 「そうそう、音が近いんで、何事かと思ったわ。」 「火が移らなくて良かった。火の粉が舞っているのを見たときは、飛び火するんじゃないかって。」 「昨夜は風が強かったからね。本当にどこから火が出たんだろうねぇ。」  噂話にいくら身を傾けても、出火元は特定できない。辺りはもう焦げ臭い匂いすら残っていないようだ。 「シラヌイって、なんなんだ…?」  何故、火事の前に現れるのか?  生物なのか? 科学的現象なのか?  シラヌイという名前はどんな意味があるのか?  いくつかの考えが頭の中に浮かんでは、解答の無いまま通り過ぎて行く。  火事の現場を目の当たりにしたのは、これが初めてではないが。  何故、今までその存在を知ることが無かったのか。何故、シラヌイの出現地点で火が出るのか。  密接するほど近い距離で、数人の人に囲まれているような気配を感じる。墓からずっとついてきている。 「おじさん。」  あの、はつらつとした少年の声で呼びかけられて、思考が現実に戻ってくる。 「キュウリ食べたい。」  子供の興味は移るのが早い。
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