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第31話 宣誓の元に ~ 帰還 ~ 1/7
幼い頃から、不思議な事にアスミは同じ夢を何度も繰り返し見た。
その夢の中では、アスミの知らない男の人が、アスミに向かってこう言うのだ。
『忘れるなよ。自分に嘘をつくことだって、罪になるってこと』
どこか悲しげな、それでいて、優しくて温かい声。
真っ白な部屋の中にいるその人の瞳の色は、燃えるような赤い瞳。
けれども。
確かにその人の顔を見ているはずなのに。
起きた時には、その人の顔は憶えていない。
覚えているのは、声と、赤い瞳と、真っ白な部屋だけ。
(誰、なんだろう?いつか会えるのかな?)
そう思い続けて生きて来たアスミは、やがて出会った男性と家庭を持ち、子供も授かって無事子育ても終えた。
思えば、幼いころから繰り返し見た夢の中の男の言葉が、いつの間にかアスミ自身の生き方の芯になっていたのだろう。
自分に嘘をつかない生き方。
それは、簡単なようでいて、案外難しい。
だからこそ、人は簡単に道を踏み外してしまう。
アスミとて、何度も挫けそうになったこともあった。
自分に嘘を吐いて、楽な道を選びそうになったことさえも。
けれども。
その度に、脳裏によみがえったのは、夢の中の男の言葉。
おかげでアスミ自身、道を踏み外すこともなく、自分に正直に生きることができた。
そして、自分自身に嘘を吐いて道から外れてしまいそうな人に出会うと、アスミはどうしても伝えずにはいられなかった。
『どうか、自分に嘘はつかないで』と。
そのアスミの言葉に救われた人が数多くいることを、アスミ自身は知らない。
アスミはただ、声を掛け続けただけだ。何かに背中を押されるようにして。
そして今。
年老いたアスミは病室のベッドの上で、愛する家族に見守られながら、あの世から来ると言われている『お迎え』を待つばかり。
自分らしく、幸せな人生を送ることができたと、アスミは人生を振り返り満足していた。
もう、自分に残された力では、腕を動かす事すらままならない状況の中。
ふと、左手の手の平にジンとした熱を感じた。
アスミの左手の手の平には、小さな赤い痣がある。
それは、生まれた時から既にあったものだと、アスミは両親から聞かされていた。
周りの友達の中で、手の平に痣のある人なんて、ひとりも出会ったことが無い。
だから、アスミは子供の頃、手の平の痣がとても嫌だった。人の目に入らないよう、なるべく左の手の手の平を隠すようにさえしていた。
けれども。
大学生になったアスミが友人に誘われて訪れた占い師の元。
その、よく当たると噂の占い師は、一目アスミの手の平を見るなり、驚いたように目を見開いて言ったのだ。
『その痣は、あんたへ向けられた懇願とも言える強い願いの証。……懇願、と言うよりはおそらく、求愛に近いだろう。あんたは戻らなければいけないよ、あんたの帰りを希っている者の元へ。いや、あんた自身も必ず戻りたいと願うはずだ。その時が来たならば』
(結局、会えなかったわね、夢の中のあの人にも。私の帰りを待っているという人にも。……それとももしかして、『あの世』で会えるってことなのかしら?夢の中のあの人が、あの世で私を待っていると?……まさか、ね)
近頃の夢では、赤い瞳の男の言葉が、今までとは違う言葉に変わっていた。
『俺は待ってるから。この、ルームαで』
(ルームαって、どこなのかしら?でも、ごめんなさい。私はもう、ここから動けそうもないの。一度あなたに会ってみたかったけれど、どうやらあなたが待ってくれているルームαへ行くのは、無理みたい)
「お母さんっ」
「お母さんしっかりしてっ!」
「おばーちゃんっ!死んじゃ、やだっ!」
(あらあら、だめよみんな、そんなに哀しそうな顔をしては。お願い、笑ってちょうだいな。私はあなたたちの笑顔が、大好きなのだから)
なんとか目を開けてみても、そこに見えるのはぼんやりとした白い天井と、愛する家族のぼんやりとした泣き顔だけ。
(ねぇ、お願いよ、みんな。どうか笑顔で私を送り出してちょうだい。私はね、とっても幸せだったのよ。だから、ね)
「わらっ、て」
その一言を最後に。
アスミは生涯を終えた。
左手に、例えようもないほどの心地よい温もりと、胸を締め付けるほどの切なる願いを感じながら。
『絶対に戻ってきてくれよな、エマ、ルームαに。……俺の所に。待ってるから、な』
生涯の幕が下りる直前。
夢の中の男の声が、聞こえたような気がした。
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