6人が本棚に入れています
本棚に追加
第34話 宣誓の元に ~ 帰還 ~ 4/7
「ほぅ」
短い声を上げると、閻魔大王は驚いたように目を見開き、アスミを見た。
「天国行きを蹴るというか」
「はい」
「そなた自身の記憶も消えてしまうのだぞ?」
「はい。承知しております」
「何故そこまで」
戸惑うような顔すら浮かべる閻魔大王に、アスミは答える。
「私のこの生は、言わばエマとマーシュからの贈り物。私はもう、十分に私の生を、アスミとしての生を全ういたしました。一片の悔いも無いと言えば嘘になりますが、それでも概ね、満足のできる生を送ることができました。もうこれで、十分に満足でございます。私にできること、思い残すことはもうございません。ですからこの魂は、エマとマーシュにお返しすべきと思うのです」
「なるほど」
「それに」
握りしめた左手を開き、赤い痣を右手でそっと撫でながら、アスミは続ける。
「私の中のエマが、叫んでいるのです。マーシュの元に戻りたいと。このような想いを抱いたまま天国へ昇ることなど、私にはできません。それこそ、『自分に嘘を吐く』ことになりますので。自分への嘘も、罪になるのですよね?」
「その通りだ」
ふぅっと大きな息を吐き、天を仰ぐ閻魔大王に、後方に控えていたナズナから声がかかる。
「閻魔様、マーシュの勝ち、ではないですか?」
「ナズナよ、それは言ってくれるでない」
「ふふふっ」
ばつの悪そうな表情を浮かべると、閻魔大王は席を立ち、アスミへと歩み寄る。
「では、さっそく」
「その前に、お願いがございます」
アスミの頭上にかざし掛けた手を下ろし、閻魔大王がアスミへ先を促す。
「エマへ、私の前世を生きた彼女へ、手紙をしたためてもよろしいでしょうか?」
「手紙?」
「はい」
左手を握りしめ、その手にそっと右手を添えながら、アスミは続ける。
「私の記憶が消されてしまう事に異存はございません。ですが、エマには知っておいて貰いたい。私がどんな生を生きたのかを。どれほど感謝をしているかを。私自身の言葉で直接、彼女に伝えたいのです」
通常、人間の魂が2つ以上の生の記憶を持つことは無い。
後に生きた記憶を消去して前の記憶に戻る事も稀である上に、後に生きた者から前に生きた者への情報の伝達など、前代未聞のこと。
閻魔大王はしばし目を閉じ逡巡していたが。
「よかろう。ナズナ、紙とペンを」
「はいっ」
開いた目は、情愛の籠った温かな光で溢れていた。
「アスミよ、案ずるな。そなたの記憶は消えてしまっても、そなた自身の生が消えてなくなる訳ではない。もちろん私もそなたを忘れることなど、決して無いだろう」
「ありがとうございます、閻魔様」
その温かな情にアスミは顔を綻ばせ、敬意を持って深く頭を下げた。
**********
エマへ
初めまして、というのはおかしいのかしら。
あなたの魂は私の魂であり、私の魂はあなたの魂、なのですから。
難しいですね。あなたへのご挨拶は。
でも、初めまして。
私は、アスミと申します。
あなたが、エマが現世へ戻ってくれたお陰で、私は生を受けることができました。
そうです。
私はあなたの魂を持って、現世を生き直した者です。
詳しいお話は存じませんが、あなたは自分らしい生を全うできなかったことを、非常に悔いていらしたとか。
自分らしく生きることを、あなたが強く願ってくれたお陰で、私は自分自身の生を自分らしく全うすることができました。
ですから、あなたにはとても感謝しております。
それから、感謝している方がもう一人。
マーシュです。
あなたが必ず戻ると、約束をした方、ですよね?
マーシュも、私が私の生を私らしく全うできるよう、支え続けてくれたのです。
夢の中に現れて。
『自分に嘘をつくことだって、罪になる』
この言葉は、マーシュからあなたへ贈られた言葉、ですよね?
ですがこの言葉は間違いなく、私にとっても生き方の芯になっていたのです。
私は、あなたとマーシュのお陰で、この上なく幸せな人生を送ることができました。
私らしい、人生を。
ですから、この魂は、あなたへお返しすることにいたします。
あなたは、マーシュの元へ戻らなければなりません。
約束は、守らないといけませんからね。
それに。
私自身も、あなたにマーシュの元に戻って欲しいと、願っているのです。
マーシュはあなたを待ち続けています。
あなたを信じて、今でもずっと待ち続けているのです。
閻魔様曰く、『砂浜の中の一粒の砂にも満たない』ほどの、ほんの僅かな希望を信じて。
この手紙をあなたが読む時には、私はいません。
本音を言えば、直接お会いしてお伝えしたかったのですが、それはどうしたって叶わないこと。
お分かりですよね?
人間の魂が、2つ以上の記憶を持つことは無いと、閻魔様がおっしゃっていましたから。
私の記憶を消すことにより、あなたの記憶が蘇ったのです、この魂に。
だから今そこに、あなたが、エマがいる。
でも、あなたが私に対して罪悪感を持つ必要は微塵も無いのですよ。
私は、あなたのお陰で生を受けることができ、そしてあなたのお陰で、とても幸せな人生を送ることができたのですから。
ただ、あなたにこの魂を、お返ししただけ。
それだけなのです。
さぁ。
今度は、あなたが幸せになる番ですよ、エマ。
自分に嘘を吐くことなく。
あなたを待つ、大事な人の元へ。
ありがとう。
さようなら。
アスミ
**********
最初のコメントを投稿しよう!