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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝日に霞んだ稜線。連嶺に重なる雲が、東へゆっくりと動いている。
赤い正装に身を包んだターリアは、自室でそのときが来るのを静かに待っていた。窓越しに広がる景色も、これで見納めだ。
今日は、神子の誕生日。
これから、彼女は神のもとへと還される。
「支度は整いましたか?」
扉をノックすると同時に聞こえてきたのは、御付の神官の声。毎朝聞いていた声だが、これもまた聞き納めである。
とげとげした緊張を抑えるように深呼吸をひとつ。「はい」と短く返事をすると、扉が開かれた。廊下に向かって、おもむろに一歩を進める。
カチャンと音を立てて閉扉する瞬間、ターリアは、十五年過ごした自室に別れを告げた。
「儀式については、先日お伝えしたとおりです。もう一度お聞きになりたいですか?」
「いえ、大丈夫です」
並んで歩く道すがら、初めて意思を尋ねられた。これが最初で最後の問いかけかと思うと、もはや笑うしかない。
心の中で小さく苦笑する。ふと、隣を歩く神官との過去を想起してみた。
彼女とは長い付き合いだが、いくら記憶を呼び起こしてみても、笑った顔を思い浮かべることはできなかった。自分のような出来の悪い神子のせいで、苦労が絶えなかったのかもしれない……なんて、うっすらと申し訳なさすら覚えてしまう。
しかし、よくよく考えてみれば、自分も笑ったことなどなかったのだ。笑いたいと思える要素がなかったし、そもそも笑う必要がなかった。
三年前、アステルに出会うまでは。
「……」
消えてなくなることは怖くない。けれど、彼と二度と会えなくなることが何よりもつらかった。
おそらく、彼は儀式には参列しない。もう、神子を護衛する必要はなくなったから。
「あ、あの……っ」
「なんでしょう?」
「彼には……アステルには、もう会えないんですか?」
「……儀式の前には、お目にかかれると思いますが」
「そう、ですか」
ほっとしたような、苦しいような、なんとも言えない胸の内。鼻の奥がつんと痛み、目頭が熱くなった。
ターリアは、生まれて初めて、泣きそうになった。
「こちらです」
ターリアが案内されたのは、神殿の最深部だった。
十五年間神殿で生活してきた彼女だが、いまだかつてこの場所に足を踏み入れたことはない。
仄暗い水底のような、不気味な空間。一歩床を踏みしめるたびに、冷たく尖った音が反響した。
儀式が行われるのだろう部屋の前には、数名の上位神官たちが佇んでいる。なにやら物々しい雰囲気だが、そこに司教の姿は見当たらなかった。
それに、アステルの姿も。
この部屋に入ってしまえば、自身を迎えにきた神とふたりきりになる。そう、神官に教わったのに。
「では、ターリア様。わたくしとは、ここでお別れです」
「!?」
突として神官から浴びせられた言葉と視線に、ターリアの背筋はぞくりと凍りついた。
これまでにも、彼女に温かい印象など持ったことは一度としてない。だが、これまでの態度が比にならないほどに、今の彼女からは刺すような冷たさしか感じられなかった。
まるで、細く尖った氷柱のように。
「今までご苦労様でございました。どうぞ……良い御余生をっ!」
「きゃっ……!!」
勢いよく室内へと突き飛ばされたターリアは、そのまま硬い床へと倒れ込んだ。床に体をぶつけた痛みを感じるひまもなく、上体を起こし、辺りを見渡す。
すると、部屋の奥で、蝋燭に浮かび上がったふたつの影を視認した。それらは、靴音を立てながら、ゆっくりとターリアのもとへ歩み寄ってくる。
ひとりは、豪奢な祭服を纏った司教。
そして、もうひとりは、
「……アス、テル……?」
例のごとく、黒紅のローブを頭から被ったアステルだった。
「どうして、アステルがここに? 儀式は……」
「儀式などありませんよ、神子様。……いや、お前はもう神子ではないな。ここに連れてきたときと同じ。ただの異国の〈白うさぎ〉だ」
「……しろうさぎ?」
〈白うさぎ〉——この言葉を耳にしたのは、これで二度目だ。
「気になるか? この国には生息していないからな。……白い毛と赤い目。お前たちの希有な容姿を喩えた言葉だ。今までご苦労だったな」
「……」
これらの司教の発言から、ターリアは悟ってしまった。
自分は——自分たちは、〈神の子〉などではないということを。
力があるわけでもなければ、神殿で生まれたわけでもない。外から連れてこられた、普通の少女だということを。
「……っ」
消えてなくなることは怖くない。……怖くないはずだった。それなのに、彼女は今、たとえようのない恐怖に苛まれている。
彼女の恐怖の対象、それは、うすら笑いを浮かべる司教ではなく、表情の見えないアステルのほうだ。
床に滴下された大粒の真珠。
彼女の赤い両目から零れた雫が、頬を伝って、ぽたりぽたりと床に落ちてゆく。
「……アステル、お願い。何か言って……」
彼女が震える声で哀願するも、彼は何も話さなかった。相変わらず、ローブに隠れた顔色を窺うことはできない。
「おやおや、いまさら仲違いか。これまでのように睦まじくしていればよいものを。……今日から此奴が、お前の飼い主になるというのに」
司教の口から次々に語られる真実。
先代も、先々代も……歴代の神子たちはすべて、儀式と称してこの場所から司教の邸宅へと連れ込まれ、愛玩用として他国へ売り飛ばされていったらしい。
そして今回、ターリアを買ったのは、ほかの誰でもないアステルだというのだ。
涙が止まらない。
行き場を失った感情をコントロールする術など、ターリアは持ち合わせていなかった。
どうしてこうなってしまったのか。自分はこれからどうなってしまうのか。
いくら考えたところで、答えなど見つかるはずはない。
自分はただのお飾りだった。偽りの存在だった。
そして、アステルも……。
——これから先、何が起こっても……俺を信じろ——
刹那。
ターリアの中で、何かが弾けた。
はっとし、いまだ口を噤んだままのアステルのほうへと視線を向ける。
あのとき、確かに彼はこう言った。「自分を信じろ」と。そして、自分は迷うことなくそれに応えたのだ。
あのとき、約束した。
自分は、
「ふむ……そろそろ頃合いだな」
何が起こっても、
「この娘をどこに連れていくのかは知らぬが、陽が沈むまでは、お前たちふたりとも私の屋敷で大人しくしていてもらうぞ。さあ来い」
彼を、
「いやっ」
信じるのだと。
「触らないでっ!!」
司教に捕えられるすんでのところでその腕を振り払い、ターリアは駆け出した。床で強打した体が痛んだけれど、そんなことなんかどうだっていい。
彼女は、飛び込んだ。
「……っ、アステル……!!」
信じた、彼の胸元へ。
「…………やっとお前に触れられた」
頭上から降り注いだ優しい声。それは、まぎれもなく彼のものだった。
彼女を抱きとめた反動で顕わとなった相貌。
藍色の髪も、宝石のような青い瞳も、微笑んだ顔も、いつもと同じ。
彼女のよく知る彼——アステルその人だった。
「信じてくれてありがとな。もう大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい」
抱き締めたターリアの耳元でこう囁くと、アステルは彼女を解放し、司教と対峙した。彼女を守るように、自身の一歩後ろへと下がらせる。
「……どういうつもりだ」
「勘違いすんなよ。先にケンカ吹っかけてきたのは、あんたらのほうだからな」
「なに?」
「十五年前、あんたらは俺の故郷で生まれて間もない赤子を誘拐した。それがターリアだ。父親は失意のうちに病死。母親は、今この瞬間も娘の帰りを待ち望んでいる」
「まさかっ……!! その娘を連れ帰るためだけに、お前はあんな大金を払って警護に就いたというのか!?」
「ああ、そうだ。根回しやら何やらで、三年も費やしちまったけどな」
ターリアが誘拐されたことを知ったアステルは、仕事の傍ら、ずっと彼女のことを探し続けていた。国内だけではなく、国外においてもその太い人脈を駆使し、必死に情報を収集した。
そうして三年前。ようやくこの国で、彼女を見つけ出したのである。
「お前は、いったい……!!」
たったひとりの少女のためにいくつもの国境を跨ぎ、たったひとりの少女のためになんの躊躇いもなく大金を投げ出せる地位の持ち主。
ふるえおののく司教に向かい、アステルは、冷厳な態度でこう言い放った。
「……弟だ。現国王の、腹違いのな」
「なんだとっ!?」
アステルの正体は、傭兵ではなく、国王の異母弟。すなわち、王家に属する者。
これには、彼の後ろに控えているターリアも、大きく目を見開いていた。ひと回りもふた回りも大きく映じた彼の背中に、得も言われぬ威厳を感じる。
「くそっ!! こうなった以上、お前たちふたりをここから逃すわけにはいかぬ……!!」
「やめとけやめとけ。陛下は驚くくらい過保護でな。異国で頑張る弟を労って、仲間を寄こしてくれるらしい」
ため息混じりに司教を一蹴。なにやら含みを持たせた物言いだったが、とたんに部屋の外が騒がしくなった。まるで、アステルのこの言葉が合図となったかのように。
喧騒がしだいにこちらへと近づいてくるなか、さらに彼はこう続けた。
「そのうえ、何よりも民のことを強く想っている。今回の件、大事な民を愚弄されたと、宮廷に対してもたいそうご立腹のようだ。……事は国際問題。ただですむと思うなよ」
悪事をすべて暴かれるのは時間の問題。長い年月をかけ、代々築き上げてきた壁が、一気に音を立てて崩壊した。
一日にして窮地に追い込まれた司教。
悔しさに染まった彼の咆哮が、冷たい空間に虚しく響き渡った。
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