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「アステル!」  陽だまりの散りばめられた庭園に、少女の声がこだまする。まるで翠緑の樹々のように瑞々しく、咲きほころぶ花のように可憐な声。  少女の視線の先には、ひとりの壮年男性の姿があった。 「おっ、着替え終わったのか?」  名前を呼ばれた彼——アステルは、自身のもとへと駆け寄ってくる少女に笑顔を向けた。  少女の名前とともに労いの言葉をかけてやる。すると、さらに彼女は人懐こく破顔した。 「お勤めご苦労さん。ターリア」 「ありがとう」  アステルの言葉に、ターリアは照れた様子ではにかんだ。あどけないその姿は、十四歳の少女そのもの。化粧を落としてもなお血色のいい薄桃色の頬が、緩やかに上がる。  礼拝の間での務めを終えた彼女は、派手な着飾りをすべて解き、白く清楚な平時の装いへと戻っていた。紅蓮の正装を纏っているときに比し、その足取りは心なしか軽やかである。  ……服装のせいだけではない。  アステルと話すこの時間が、ターリアにとって、唯一自分を解放できる貴重な時間なのだ。  アステルは、ターリアの身辺警護を司る元傭兵。礼拝の間においては、腰に長剣を()び、常に彼女の傍らに控えている。  異国人ゆえにその肌は白く、翠色(すいしょく)とも碧色(へきしょく)ともとれる双眸は、さながら輝く宝石のよう。  少々癖のある髪は、星月夜を思わせるような深い深い藍色。そして、形のいい顎に生えた無精な鬚が、彼の印象をより強いものにしていた。  ともするとターリアよりも目立つ外見のアステル。よって、表に出る際には、黒紅のローブを頭から被っているのだ。 「体調はどうだ? 良くなったのか?」 「うん。昨夜に比べたら、ずいぶん良くなったよ」  昨夜、ターリアは国王より直々に宮廷へと招かれていた。国教の神子である彼女は、国王でさえも(こうべ)を垂れる存在だ。  司教はじめ数名の上位神官、それからアステルとともに国王主催の宴に出席したのだが、体が不調をきたしたため、大事をとって早々に退廷したのである。 「陛下に悪いことしちゃった」 「体調不良なんだから仕方ないだろ。お前は悪くない。気にすんな」  眉をひそめて笑みをこぼすターリアに、アステルはきっぱりとした態度でこう告げた。ぶっきらぼうな物言いだが、そこに多分な優しさが込められていることをターリアは知っている。彼の人となりは、彼とともに過ごした年月が教えてくれた。  アステルがこの国にやってきたのは、今からおよそ三年前。前任の警護が病の床に伏した翌日のことだった。  それまで警護にはすべて国内の人物を充てていたのだが、今回初めて国外出身の彼を起用することとなった。彼を雇うに至るまでの詳細な経緯は不明だが、習わしを重んじる神殿——ことさら司教——がそれを覆すなど、腕っぷし以外に何かよほどの理由があるらしい。  だが、そんな大人の事情など、ターリアには関係のないことだ。  今まで自分を守ってくれた人たちのことを悪く言うつもりはない。もちろん感謝しているし、敬意だって抱いている。  けれど、「気にするな」などという、なんとも直情的で、なんとも優渥な言葉をかけてくれたのは、アステルが初めてだったのだ。 「ねえ、アステル」 「ん?」 「……ありがとう」 「どうした? 改まったりなんかして」 「どうもしないよ。……言いたかっただけ」  ターリアの唐突な謝辞に一瞬目を丸くするも、アステルはまたすぐに微笑んで見せた。自分に向けられた純粋な謝意が、この上なく心地いい。  もどかしさすら、感じるほどに。 「あんまり長い時間話してると、また司教に怒られちゃうかな。この前の話の続き、聞きたかったんだけど」  ターリアの言う〝この前の話〟とは、いわゆる〝外の世界の話〟。  神殿と宮廷という限定されたふたつの場所しか、ターリアは()らない。国外はおろか、国内の事情でさえも、識らないことのほうが圧倒的に多いのだ。でも、それでいいと思っていた。識る必要性すら感じていなかった。自分は、この国の神子だから。  しかし、異国人であるアステルと出会い、彼の人柄やその深い知見に触れれば触れるほど、識りたいという欲求は(うずたか)く積もっていく。 「俺は別に司教にどやされるくらい構わないけどな」  アステルを警護に据えたのは、ほかの誰でもない司教だ。神殿の最高責任者である司教の決定は絶対。司教の言は、時として〈神の子〉であるターリアのそれよりも重い。  そんな司教。どうやら、アステルがターリアと必要以上に睦まじくなることを良しとは思っていないようで、以前ふたりを咎めたことがあったのだ。  以来、ふたりは司教の目を盗み、こうして建物の外で会うようにしている。 「……でも、昨日のこともあるし、今日は部屋に戻って早いとこ休んだほうがいいな。話の続きは、また今度だ」 「……うん」  残念そうに苦笑を漏らしたターリアは、「また明日ね」と言い残すと、踵を返し、小走りで戻っていった。  その背中は、心なしか翳りを帯びていた。 「……」  彼女の部屋へ赴くことは禁じられている。そのため、遠くなる背中を見送ることしか、アステルにはできない。  手を伸ばせば届く距離にいた。頭を撫で、背中を押せる距離にいた。けれども、どれも行動には移せなかった。  彼女には——神子には、触れること叶わない。 「……必ず助けてやるからな」  陽だまりに落とされたアステルの決意。彼女を前にし、空を切らざるを得なかった手にグッと力を込める。  気持ちを入れ替え、何かを真っ直ぐに見据えると、静かに一歩を踏み出した。
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