アイマイミーレイン

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 水無月、殺風景な通学路。 詩や小説において『梅雨』は美しく描写される対象となる。 水滴の行方や降り注ぐ雨粒の透明さを都合よく汲み取り、鬱陶しい湿気を冷涼な天からの恵みとして書き記す。 それが額の中の梅雨。 「そんなに綺麗なことばっかりじゃないのにね」  綺麗事や絵空事を受け付けない私はよく『(ひね)くれている』と煙たがられる。 大抵の小説や教科書を読んでも、その裏にある真意を察してしまうこと。見え透いた常套句を見透かしてしまうこと。知られたくないことまで知られてしまう彼らにとって、私の存在は酷く都合が悪い。 数時間前、授業で読んだ小説の題材は『傘』だった。梅雨の蒸し暑さを払拭し数週間後の夏の快晴に想いを馳せるような単純な感情の羅列。 人物に同情する隙はなく、気恥ずかしさが拭えないような文章だった。 「酷い話だ」  誰かが魂を削って生み出した作品を一概に否定したいわけではない。芸術家の一人である私自身も私自身の作品には虫唾が走っている。きっとその当てつけに人様の作品を否定していなければ、自分自身を保つことすら危ういのだと思う。芸術家として、人間として、私は酷く醜いということを自覚している。 『もっと素直に、中学生の純粋さを生かした作品を描きなさい』  数週間前に刺された言葉が脳裏をよぎる。 美術部に入部して三年、気づけば部室で目を合わせるのは向き合うキャンバスに描かれる架空の誰かだけ。 彼女が部を去ってからというもの、私は絵で満たされている感覚を得られなくなった。理由すらわからず去った彼女への(わだかま)りを抱えたまま、答えのない何かに取り憑かれたように線を引き、色を添えている。 「朝顔(あさがお)さえいてくれれば」  誰よりも早く部室に入り、窓際に置かれている大きなキャンバスに微笑みを浮かべる彼女の存在が恋しい。 物心ついた頃から隣にいた彼女との距離を感じるようになったのはいつからだろう。 感傷に浸りながら足を進める、重くなった通学鞄には画材と手放せずにいる手紙が入っている。一年前、全国の作品が集まる展覧会へ行く私に宛てられた彼女からの手紙。 『紫苑(しおん)の描く絵を必要としている人は必ずいる、私は紫苑のまっすぐな絵が好きだよ。だから私はそのひとり』    彼女の言う『真っ直ぐ』が今の私にきっとない。彼女の存在で保たれていた過去の作品達を今の私は生み出すことができない。 あの時の色も形も、今の私には描くどころか思い出すことすらできない。彼女が好きだと言った当時の何かを掴もうと筆を握る度に、歪んだ何かが出来上がる。 それが意味を成さない単純な作業のように感じてしまう。 「……」  視界に(もや)を掛けるため眼鏡を外す、投げ捨ててしまいたい衝動を抑え胸元に刺す。 霞んだ視界を(つんざ)くような雨と、ビニール傘にぶつかる雨音が響く。視界の奥の方に妙に動かない猫のような影がみえた、頭部が茶色く胴体の色味はとても猫とは思えない。 紫陽花の横、何かにもたれかかるように動かないソレの正体を私はなんとなく感じ取った、本当になんとなく。 「朝顔……?」  目に薄くかかる前髪と肩に触れる色素の薄い髪、細い腕で自身の華奢な身体を包んでいる。 紫がかった唇に眠気の宿った瞳がゆっくりと私をみる。 「……紫苑、久しぶりだね」  異常なほどに冷静な彼女の口調に戸惑う、私の目の前の少女が彼女であるという確かな事実に対して感じたこともない違和感が生まれた。 「朝顔、ここで何してるの…?」 「ちょっと疲れちゃってね、休憩してたの」  返ってきたのは私のよく知る彼女の笑みだった、全てを浄化するような柔らかな表情が映る。 「朝顔、傘は?」 「えっ……?」 「傘だよ、こんなに雨が降ってるのにさしてないなんて寒いでしょ」  彼女の毛先から水滴が落ちる、それが当たり前かのように拭う素振りもなく動かない彼女を放っていられなかった。 「紫苑……私は大丈夫だから、紫苑が濡れないようにして」  彼女の頭上に差し出した傘は震えた手で私の元へ戻されてしまった。 俯く彼女の瞳から落ちる水滴が雨かそれ以外か、私にはわからない。 「でも……」 「画材、入ってるんでしょ?その鞄の中に」 「……どうして」 「わかるよ、何年隣にいたと思ってるの……」 「……離れていったのは朝顔の方だよ」  口に出す予定のなかった言葉が漏れ出る、ただこれは紛れもない本心。 「そうだよ、離れたのは私」 「どうして?」 「え……?」 「どうして離れていったの?」 「それは……」 「このままじゃ寒いでしょ、立てる?ちょっとついてきて」  何ヶ月ぶりに触れた彼女の手には、私のよく知る柔らかい感触が残っていた。 その細く長い指で筆を握る彼女の姿は狂おしいほど美しく、気づけば目を奪われている。そんな日常が続いていくはずだった。 「どこにいくの……?」 「美術室、今日は部室解放してなくて誰もいないはずだから」  数センチのもどかしさを抱えながら、ひとつのビニール傘に入る。 雨粒のせいか靄のかかる視界と痛いほど鮮明に映る彼女の横顔。表情は無く、ただ地を踏む音だけが彼女から発せられる。 「これ使って身体拭いて、濡れたままだと校舎に入れないから」  昇降口、差し出したタオルを不思議そうに見つめる彼女の瞳には若干の笑みが含まれているようにみえた。 「どうかした?」 「そういえば……このタオル紫苑に貸しっぱなしだったなって思って」  手を口元にあてながら目を細める彼女に懐かしさを覚える。 彼女の容姿からは想像もつかない無邪気な瞳で笑うこと、話す声が途切れないように笑いを堪える癖。私はその仕草に不確かな特別を感じていた。 「あっ確かに朝顔の家に泊まってそれから貸りっぱなしだったね」 「私も忘れてたから思いだ出せてくれてありがと、紫苑」  解れた表情で身体を拭く、まだどこか気を遣っているようでぎこちなさが残るけれど数分前よりも以前の空気感を取り戻しているような気がする。 「美術室ってこっちだっけ?」 「そうだね、でも先に鍵を借りたいから職員室の方から行ってもいい?」 「わかった、ありがとう」  二人で歩く廊下に入学当初の初々しさを思い出す、同じくらいの背丈に真新しい制服を纏ったあの頃。 二人はずっと一緒にいるのだと確信しきっていた当時の期待を、今は酷く羨ましく思う。 「鍵借りれた?」 「長く居るのは難しそうだけど借りれたよ、一応名簿も渡された」 「そっか……ねぇその名簿みてもいい?」 「……まぁいいけど」  彼女の持つ目的も知らぬまま名簿を渡す、慣れた手つきで開き指で名をなぞっていく。 「紫苑、部長になったんだね」 「美術部での出席日数が多かったからかな」 「違うよ、そんな適当な理由じゃないでしょ」 「私は部長に向いてない、本当は朝顔がなるべきだったんだよ」  あの日、新体制として動き出した美術部の新部長発表の瞬間。私は必死に在るはずもない彼女の存在を探した。 目の前のキャンバス以外向き合うことのできない私には荷が重すぎる宣告に息が詰まりそうになる感覚は、今でも忘れることはない。 「私は……朝顔が部長の美術部で絵を描いていたかった」 「……それはどうして?」 「朝顔がいてくれれば雰囲気が暖かくなる、私なんかとは違う」 「紫苑」 「……?」 「紫苑は強いよ、勝手にいなくなった私を責めることもなく苦痛を受け入れた。それは私には真似できないことだよ」 「私が部長になってから部員が三人辞めたんだ」 「そうなの?」 「それも全員新入生、個人作業の美術部で退屈な思いをさせてしまったんだと思う……今更遅いけどすごく後悔してる」 「新入生は何もわからない状態で入部してくるから想像とギャップがあると辞めちゃう子も多いって聞くよ、だから紫苑が気負いする必要はないと思う」 「……」 「紫苑は?」 「え?」 「紫苑は今、楽しい?」  何かを追い求めている途中に置き忘れていた私自身のこと。決められた時間、ただキャンバスと目を合わせる私の感情。 「楽しいかどうか……今は答えられない」 「そっか……変なこと訊いてごめんね」 「謝るなら、私も変なこと訊いていい?」 「ちょっと怖いけど……いいよ」  数ヶ月間、抱き続けた疑問。 その答えが私の何かを傷つけるものだったとしても、今の私ならしっかり受け取ることができる気がする。 同じ夢を志していた貴女が、その道から離れた理由。 「どうして美術部を退部したの?」 「……」 「答えたくなかったら無理はしなくていい、ただ……」 「夢に本気な紫苑の邪魔に、なりたくなかったの」  躊躇いながら、ゆっくりと開く彼女から溢れたのは淀みのない優しさだった。 「邪魔……?」 「私ね、紫苑に内緒にしてたことがあるんだ」  机上に広げられた複数枚のパンフレット、どれも共通して煌びやかなキャンパスが写っている。 「これ……どうしたの?」 「私、進学先変えることになったんだ」  入学当初から共通で目指していた美術系専門学校への入学。決して容易な道ではないけれど、どこか約束されたような将来に安心しきっていた私がいた。 「それ……本当?」 「うん……実はね」  両親が開業医の彼女は、ずっと彼女自身の夢を隠していたのだそう。 美術部に入部していることも、画材を購入していることも全て。そんな彼女が初めて両親に夢を伝えた時、最初に返ってきた言葉が彼女の胸を裂いた。 「何て言われたの?」 「『無謀な夢を抱くような子に育てた覚えはない』って」 「……」 「その場の雰囲気から察したんだよね、私の夢を認めてもらうことは不可能だって」  彼女の頬が再び濡れる。 「朝顔」 「……」 「朝顔は、まだ絵を描くことは好き?」  躊躇う間も無く頷く、言葉すらないまま強く頭を振る。 「朝顔」 「ん……?」 「私はここで絵を描き続けるよ。だから朝顔が心から絵に向き合えるようになったら、また一緒に進み始めようよ」  不確かな口約束を、私は堅く守ることを誓う。 それは私はずっと口約束で繋がってきたから、そして口約束以上の何かを信じている形に変わったから。 私が夢を追い続けてこれた恩を返すのは今しかないと思った、この感覚に間違いはない。数秒の沈黙の後、下校を促す校内放送が鳴り響いた。 「朝顔、ここについてきてくれてありがとう」 「こちらこそ紫苑と話ができて……向き合えてよかった」  荷物をまとめる、蛍光灯の灯りを消す。 早足で扉へ向かう私の動きを止めたのは、彼女の声だった。 「紫苑」 「ん?」 「紫苑が描いてる絵、みてもいい?」  彼女の目は、当時惹かれていたキャンバスに向かう目と近しいものをしていた。 断るという選択肢は自然となく、キャンバスに吸い込まれるように彼女の手を引いた。 「これだよ、来年の夏のコンクールに出す予定の作品なんだ」 「ねぇ、この女の子って……」  今、私の中で歪んで見えていた線がはっきりと見えた。 「私も今はっきりわかった……ありがとう、朝顔」  キャンバスの一部にしか、鉛筆の先にしか、目を向けていなかった私が見えていなかったもの。 キャンバスの全体図、日を重ねて伸びていく度に線が結ばれて出来上がった形。 「私の横顔……」  歪に揺れている線が織りなしていたものは、あの日みた彼女の笑う横顔だった。 私が描いていたのは架空の人物でもなんでもない、この世界で最も近くにいる人、いてほしい人。私の夢の背中を押す、唯一の『親友』。 「紫苑」 「ん?」 「私の絵も、忘れないで待っててね」  そう言い美術室を駆け出して校舎を出る、降り止まない雨の中を傘を分け合い歩いていく。 次第に鋭くなる雨に見えなくなる遠くの空は私たちの未来を暗示しているのだろうか、何も見えない、それでいて『晴れる』という希望が隠れんぼしている未来。      
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