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研究所に帰ると一階には誰もいなかった。恐らくみんな自分の部屋で休んでいるのだろうと思い、僕はホクケイに案内され空き部屋を使うことになった。部屋を少し整えしばらくすると扉を叩く音がして、僕は扉を開けた。そこには大きな分厚い本を持ったマナがいて「少し時間いい――」と僕に聞いてきたので、僕はマナを部屋に入れた。
「なんだか眠れなかったの、私の部屋ウルの隣だから」
そう言って僕の部屋となった空き部屋を物色していた。
「ところで、ウルの部屋でこの本を見つけたのよ」
僕の机に大きな音を立ててその本を置き、彼女はページを捲り始めた。その本は少しホコリを被っていて、やけに分厚いその見た目からは不気味さを感じた。だがそのページの中身を覗いてみると、外側に被ったホコリの気配を一切感じさせないほど綺麗だった。
「このページに、人の花について書かれているのよ」
彼女はパッとページを捲る手を止め、そこに綴られた文字を指でなぞり読み上げた。
少女フローラは願った
花になりたいと
神ゼフィロスは願いを受け入れ
フローラは花となった
ゼフィロスはフローラを二つに分け
その花の種を人間に与えた
まるで神話のように綴られているその短い物語には、不思議と真実味があって僕は受け入れていた。文字と一緒に記された絵にはフローラとゼフィロスらしき人物がいて、そこは天国のように美しい花で満ちていた。
「フローラは幸せそうだわ」
彼女はその絵を見て呟いた。言われてみればそう見えるような気もするが、僕はフローラの表情に感情を感じなかった。そして、神ゼフィロスのことは笑っているように見えていた。これが本当にあった昔話だというのなら、このとき彼女らがどんな気持ちだったのか、それを知ることには意味があると思った。
マナは静かに本を閉じ、この部屋に一つしかない椅子に座る。
「この本曰く、これが人間に花が咲いた始まりですって。あなたはどう思う――。私は、ここにあることだけが本当のことなら素敵だと思ったわ」
僕は彼女に初めて会ったときに感じた恐怖をまた感じた。何かもっと遠くにあるものを睨みつけるような、ここにはないものへの怒りに近いものを感じた。だがそこには僕に、ある答えを求めているような期待も感じた。それがどちらの答えなのか僕には考えても分からず、自分が思ったことをそのまま言うことにした。
「僕は、本当のことならそれをもっと知りたいって思ったよ。フローラはどうして花になりたかったのか、ゼフィロスはなぜフローラを二つに分けたのか」
至って真面目に答えた僕の返答に、彼女は面白いことでも聞いたように笑っていた。「良い答えね」そう言ってまた笑い転げる彼女の姿を見て、僕は少し安心した。仲間を失ったその夜に立ち直ることは難しいかもしれないが、それでも僕らは前を向いて生きていかなくてはいけない。街の人に約束したように、ウルに誓ったように――。こういう何気ない時間を過ごせることは、とても大切なことだと改めて感じていた。
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