ルピナス

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「なぜ花を食べるのか、素敵な質問だ」 そう言っているこの一瞬、悪魔ではなく人間に、何かを恨み悲しむ人間に見えた。そして――。 「君の花も美しい、だから特別に教えてやるよ」 僕の右腕に咲く紫色の花々を愛おしそうに撫でながら、それはそれは楽しそうに話し始めた。 「僕はノア、生まれは人間さ。今の僕はなんだろうねぇ、僕が聞きたいよ。君の思うように悪魔なのかもしれないな。ところで君は、花の味を知っているか」 小馬鹿にするように話していたかと思うと、彼は急に真剣な顔をして僕に聞いてきた。 「蝶も好むのだから、甘い」 自信なさげに僕がそう答えると彼はまた馬鹿にするように笑ってから、今度は優しいお兄さんのように話しだした。 「確かに、良い花なら甘いかもしれないな。でも僕は負の花しか食べないんだ、ごめんよ」 そして彼は僕の右腕の花を一つ食べると、そこに生まれた空洞に自分の黄色い花を植えた。そしてさっきよりも低く落ち着いた声で言った。 「負の花ってのは、吐き気がするほど気色が悪いものさ。食べられたもんじゃない、だから君は真似するなよ」 誰が真似なんかするかと心の中で言い放ち、彼を睨みつけた。 「さっきは美味しそうだとか言っていたくせに」 つい口から出た言葉に自分でも驚いて、僕は口をおさえた。彼は呼吸が荒くなるほど大笑いして僕の首に手をかけた。 「そうだねぇ、不思議だよな。でも、自分の花を不味そうに食べられたら嫌だろう。せめてもの優しさだ」 本当に頭のおかしな人だと諦めたその時、僕の首にかかる手はだんだん力を増していき、僕は息ができなくなっていく。 「兄さん」 命を削るようなその叫び声に手の力がゆるくなった。僕は息を整える間に、その言葉の意味に気づいてしまいそうで怖かった。  「兄さん」 レイはこの男のことを兄さんと言った。悪魔のような笑い方をするやつがレイの兄さんだなんて信じがたい。僕は混乱を隠せずにいた。 「ほらぁ、この子が混乱しているよ」 レイを試すようなその言い方に、レイは初めて見るような怖い顔をしていた。 「その人から離れて、もうこれ以上こんなことしないで」 「レイこそ気づいたらどうだ、お前のやっていることに意味はない」 「兄さん、このままでは兄さんが――」 必死に叫ぶレイの言葉はまるで届いていないようだった。彼は僕に視線を戻して、また不気味に笑った。 「話の続きはまた今度しよう。レイのことを頼むよ」 優しさに溢れたその声に僕は困惑していた。ノアというこの人はレイのお兄さん。美味しくもない人の負の花を食っている。僕にはとても理解が出来なかった。でもやはり、どこかに優しさや悲しみを感じたのも間違いではない。彼は悪魔なんかではないのだろう、それだけは僕にもわかった気がした。  気づけばノアはいなくなっていて、レイは空の向こうを寂しそうに見つめていた。 「ホクケイ――」 ホクケイは僕の必死の呼びかけにも応じない。息はしているようだから気絶したのだろう。そして少女の母親もまた、息をしていた。花は一輪もなくただ涙を流している姿に、僕は彼女の抵抗を感じた。土になることを必死で拒んでいるような感情をその涙に感じて、僕は急いで研究所まで走った。 「マカちゃん、君が生きてお母さんに会えるのはこれで最後だ。辛いだろうけど、君はこれからこの別れを乗り越えて生きていかなくてはいけない。どうする、会いに行くか」 こんなに小さな少女に残酷なことをペラペラと言っている自覚はあった。だけどこの子なら、きっとこの悲しみも乗り越えて生きてくれると思ったのだ。少女は涙を流さず、ただうなずいて部屋を飛び出した。 「これで良かったの」 マナが僕に尋ねたが、僕は迷いなく答えることが少女への責任だと思った。 「うん、これで良かったと思ってもらえるように頑張るよ」 「助けたいっていうのは嘘じゃなかったのね」 僕はマナの言葉を自分にも言い聞かせ、少女の後を追って部屋を出た。 「ママ、ママ」 僕は、叫びながら母親の元へ走っていく少女の姿を自分と重ねた。姿が違っても、他の誰も分からなくなっても、生まれたときから愛を受け取ってここまで一緒に生きてきた僕らには、母は母以外には見えないのだ。誰よりも大きい愛を何の見返りも求めずに与え続けてくれる人。僕らが生まれる前から愛してくれた人。抱きしめられるだけで安心して、叱られたことも思い返せば暖かい気持ちになる。だから母がいなくなると、大きな悲しみの花が咲く。後悔の花や寂しさの花、誰かや自分を憎む花――。だけどきっと、母さんはそんな花が咲くことを喜びはしない。母さんは僕が生きていくことを喜んでくれる。僕らが幸せの花を咲かせて生きていくことを、心から願っている。 「ママ――」 勝手に溢れてくる涙が彼女の言いたいことを遮る。だけど、少女の母親は分かっているようにみえた。彼女の気持ちも言いたいことも全て。彼女の母親の涙は、言葉も発せず抱きしめることも出来ない自分の身体に悲しんで流れているものに見える。愛する子との別れを受け入れたくない葛藤と、変えられない未来を受け入れている寂しさが、土となってこの大地に残っていく。 「抱きしめてあげられなくてごめんね、涙を拭ってあげられなくてごめんね、マーちゃんのこれからに、一緒にいてあげられなくてごめんね」 声が聞こえた。周りを見渡して僕はわかった。僕だけに聞こえるものじゃない。少女の母親が、最期に自我を取り戻して少女に話しているのだ。僕たちは二人から離れて下を向いた。最後の家族の時間だから。 「ママ、ごめんなさい。いっぱいわがまま言ってごめんなさい、ケンカしたとき、ママなんか嫌いって言ってごめんなさい――」 「ママ、大好きだよ。いっぱいありがとう」 「ママもだいすきだよ。マーちゃんのこと、世界で一番愛してる――」 そして、少女の母親は土となった。  その土に少女の涙が降り注ぎ、そこには美しい花が咲いた。それはまるで、母から子への贈り物のようだった。
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