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祖母の容態が急変した──。
叔父から連絡があったのは、朝食を終えて、仕事着に着替えていたときだった。私は、慌てて会社に連絡し、車の鍵を乱暴につかむと、祖母が入院する病院へと車を走らせた。
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祖母が体調を崩して緊急入院をしたと連絡があったのは、ひと月前のことだ。そのときも私は、今日と同じように車を走らせていた。
意識はあるだろうか、私のことが分かるだろうか、頭をよぎるのは、とにかく悪いことばかり。
息を切らして病室に入ると、酸素マスクをつけた祖母が、私を見つけ嬉しそうに笑った。
「思ったより元気そうでよかった。緊急入院って聞いたから……。ごはん、ちゃんと食べてる?」
「看護婦さんも、ごはん食べてって言うんだけどね、のどを通らないんだよ。」
祖母は、ほんの少し寂しそうで悲しそうな、でも、とても静かな微笑みをたたえた。
「もう少しで、お迎えが来るってことだねえ。」
尊敬し、愛し、慕い続けた祖母との永遠の別れが近づいている。このときが、初めて《死》を近くに感じた瞬間だったように思う。
「あれあれ。泣かなくていいんだよ。おまえは本当に、しかたのない子だねえ。」
祖母は、私をそっと抱きよせると、子守唄を歌ってくれた幼いころのように、私の頭をそっとなでた。
「いいかい? 人生は、死ぬまで勉強なんだ。」
祖母は、その命が風前の灯火になった今も勉強し続けている。きっと、お迎えのその瞬間までも、学び続けるのだろうと、祖母の匂いに包まれながら、私は思った。
「でもね、死ぬ前に、おまえに言わなければならないことがあるの。」
若いころを思わせる、よく通るまっすぐな声で、祖母は言った。そして、私の頭から手を離した。私は顔を上げ、祖母の目をまっすぐ見た。
「おまえは、『天女』なんだ。」
あまりに唐突な祖母の言葉は、私から思考を奪ってしまった。このときの私の目は、白黒していたに違いない。そんな私を見て、祖母はふふふと笑った。
「驚くのも無理のないことだけれど、本当なんだよ。おまえは、『天女』なんだ。」
祖母は、引き出しに手を伸ばし、着物のはぎれで作った巾着袋を中から取り出した。そして、袋をもてあそびながら、祖母は昔話を始めた。
「昔々、ひとりの美しい天女が、人間の世界におりてきました。天女は、海辺を歩くのが好きでした。」
それは、私が幼いころに祖母が話してくれた寝物語だった。私は今でも、この物語をはっきりと覚えている。しかし今、祖母があえてこの話をしているということは、きっと、何か意味があるのだろう。
私は、幼いころに聞いたときとは違う思いで、祖母の物語に耳を傾けた。
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